【 旅の栞 】

草奔の志士 野城廣助:いちはら探訪

幕末を駆け抜けた上総出身の志士

 嘉永六年六月三日、米艦が浦賀に来航してから日本国内は開国か、鎖国かの岐路に立たされた。その中尊王攘夷の思想は日を追ってた昴まり、西南勇藩と奥羽列藩同盟の二大勢力の大きな渦の中に草奔の志士達の死を渚した激烈な運動が展開された。そうした社会情勢の中で平田派国学者達が惹起こした足利木首事件は京都で頻々と起きた天誅事件の圧巻で、幕府を最も震感させた事件である。この事件によって幕府は攘夷派への弾圧を強め凄惨な殺戮の応酬が展開されるようになった。
 この事件以降、平田派国学者の尊王攘夷は挫折せしめる結果となったが、木首事件が一般社会に与えた影響は大きく、維新史の中で最も高く評価される事件である。この事件関係者の中に山田橋村(現市原市山田橋)の名主野城良右衛門の養子廣助が加わっていた。
 廣助は平田銕胤の気吹舎と、平田門の高弟権田直助の名越舎の高弟として国学と医学を修めた。性御豪邁にして文武両道に達し、多くの尊王派志士と交わり国事に奔走した。足利木首事件では連累者を含め、関係者は大半が逮捕され処罰の対称となった。野城廣助は幸いにも逮捕を免れ、同士の宥免運動に尽したが、その後十津川の天誅組事件で知られる。中山忠光の倒幕挙兵に呼応し、讃岐の勤王家達と行動中熱病に冒され志半ばにして若冠二十一歳で異郷に没した。

草奔の志士 野城廣助

 廣助は初め鞏輔と称す。天保十四年上総国に生まる。秋月佐渡守高鍋の医師福永某の二男なり。幼少の時同国市原郡山田橋庄屋野城良衛門の養子となる。性豪邁にして気節あり。好みて書を読み平田鉄胤に就きて国史を脩め、剣師権田直助に従ふて武術を練り技倆衆人を抜く。若冠にして既に文武両道に熟達せり。夙に勤王の志厚く東奔西走して以って四方の俊傑と交わる事年あり。偶々嘉永六年米艦浦賀に来航して談判を開く。若し折衝一歩を過ぎたは国家利害の関する所豫め逆賭すべからざるものあり。鎖国攘夷の論喧しく天下騒然として慷慨の志士四方に奔走す。爰に至り廣助晏然として僻慷の地に起臥するに堪えむや、蹶然起って大いに成すおらむとす。

野城廣助の遺事(志士 野城廣助遺事[仲多度郡史]坂出市鎌田共済図書館所蔵)

 文久三年故山を後にして先つ京に上がり、岩倉三条の両卿の内意を窺い、又同士と交はりて国に殉せむ事を誓ふ。此の歳二月二十二日三輪田綱一郎[伊豫人)師岡節斎(江戸人)野呂久左衛門、岡本太郎(備前人)等十数人と共に足利氏三世塑像の首を斬り、三条磧に梟して以って幕府を諷せり。其高札に筆を執りし者は山田総夫(野城廣助の仮名)にして忌憚なく秕政を聲言せり。間もなく三輪田等捕へられ将に刑せられむとす。
 廣助憤然行きて其不法を鳴らし大いに激論する所ありしか、終に毛利侯の奏請に因り特に宥さるを得たり。是より同士多く心を長州に傾くるに至れり、同年八月二日師権田直助の意を受け、越後長岡藩士長谷川鉄之進(正傑)と共に本郡琴平に来たり、日柳耕吉等と図り東讃の志士子橋友之輔、大田次郎と相携へて阿波国に赴き祖谷の土豪を説きて勤王の列に加へしめむとす。勧誘示十数日に亘りしも効を奏せず。
 再び讃岐に帰り圓座村の小橋家に隠れ其の由を在京の直助に通し置き、一方同士と日夜会合して徐ろに後事を議す。是より先き輦轂の下無頼の徒頻りに横行し、勤王の名を借りて暴行脅迫を恣にす。此れを以って京都守護職を置き浪士を取締り風紀を正さむとして、元治元年松平容保を挙けて其の職に任す。勤王の同志之を聞き幕府の専断を罵り、且つ容保の処置に反対し、高松侯を以って其の職に擬し、会津公の罷免を圓れり。
 爰に於いて廣助、正傑等小橋を拉して松平左近の高松邸に至り、会津守護職を去り、後任の命高松に下らは藩主の受諾すべく勧告せられむこと求む、果たして受諾せらるるとせは我等はその間に奔走と稟議す。左近直ぐに了諾す。然るに同年八月在京の同志より特使来たり、此の十三日大和行幸外夷御親征の軍儀を開かるへき詔ありと告く、廣助等好機至れり逸すへからす。男子の国家に尽すは此の時にありと勇躍踏む処を知らす。
 直ぐに援造、友之輔、鉄之進、次郎等五人特使と相携えへ殊更迂回して丸亀に至り、軽舟に乗して即夜出発す。こは一つに高松藩を憚ると、また軍器を丸亀村岡邸に秘し置けるを携へ行むか為なり(軍器とは前年大田次郎の製せし加児波尼電気、白砲、弾丸、硝薬等なり)然して航路無事二十四日大坂に着す。会々朝議一変し、大和行幸は中止せられしのみならす長藩と結し七卿の西下となり、京都の形成混沌たりしかは廣助直ちにに入京し、漸く其事情を詳にするを得て大坂に帰る。

異郷の讃岐にて終焉する

 是により同志は轉して海路長門に航せむとして船を発す。幾なくして廣助船中外邪に触れ発熱甚しく日々に重態に陥りしかは、美馬援造之れを扶けて友之助と別れ丸亀に廻航して村岡宗四郎の邸に頼る。同志小橋安蔵同順二、村岡宗四郎等亦出軍の準備を整へ将に出発せむとする時なりしか既に籌策の齟齬せしを聞きて大いに憤慨し、又同志の不幸を慰め直ちに城下の医師尾池譲軒を迎へて治療を受けしめしと難も、病症旦夕に増進して熱気高く、間断なく 語を発し、加うるに頻々下痢して危篤に陥り、同志の看護も其の効なく九月十九日終に歿す。
 安蔵、耕吉、援蔵、文郁等枕頭に号泣す。享年僅かに二十一歳而して事急遽に出てしかは大いに劒葬の道に困す。素より之を公にするを得すとも雖も世を憚りて秘密裡に埋葬せむか、大志を抱きて薄幸に終われる志士に対してその禮を缺く。幸に文郁は元と遠国の産なれば遠き親類の人なりと云はは世或は之を怪しまさる可しとて、即ち夜屍を駕籠に乗せて琴平に運び近隣に告くるに「武州の従弟金毘羅参詣の途次丸亀にて客死せり」と偽り、公然厚ふして廣谷の墓地に葬る。後短小なる石を建て墓標となす。されと尚ほ憚る所ありしか[野廣之墓]と鐫せり。これ美馬援造の書する所にして實に志士の赤誠この四字に顕はれ以って千歳に朽さるべし。

野城廣助と讃岐の同志

長谷川正傑

 長谷川正傑と野城廣助との係りは、廣助が平田塾に入門した直後から始まるが、平田派の志士とは別の立場で志士活動を行っていた模様である。従って正傑は平田派門人が起こした足利三代木像梟首事件には関係していない。しかし廣助等が上洛した頃正傑も上京し志士活動を行っていた。四国の勤王家とは早くから交わりがあった。正傑は越後蒲原郡下粟津村の三男、通称鉄之進又は公輿、号を強庵と云った。江戸に出て朝川善庵に学び、善庵歿後は常陸、下野で学を講じた。

井上文郁

 文郁は備中の国都窪郡帯江村の出身、植田尚義が本名で、通称は宗平、号は有都年又は文郁。若い頃京阪神地方で勉学し、弘化年中琴平の金山寺町に来て医を業とした。気節に富む人物であった。日柳燕石、美馬君田や小橋安蔵一族の面々と気脈を通じ、勤王家として多くの志士と交流があった。高杉晋作等もその内の一人である。野城廣助が丸亀の村岡家で九月十九日息を引き取った時、村岡氏はその報を井上家に通じた。文郁は之を日柳燕石、美馬君田の二氏に報じ前後策を講じた。村岡家では高松藩に知れるを恐れ、其処置を井上氏に喋ったのである。之を秘密に埋隠する事は天下の志士に礼を缺く事になると云って、文郁は即刻廣助の遺体を引き取り自宅に移送した。近隣には武州の従弟が、金毘羅参りの途中丸亀の旅籠で死したと偽り、公然と禮を尽くして、廣助を廣谷の墓地に埋葬した。後に同志の美馬君田は廣助の姓名の二字だけをとって「野広君之墓」と書し鐫した。

美馬君田

 美馬君田は、文化九年(1812)三月十五日、阿波国美馬郡重清村字谷口にて出生。父は鎌田治左衛門、母は久美。君田本姓は鎌田氏、名は諧、字は和甫といい、通称援造・三嶺、号は君田、俳号は土仏と称した。家は世々農業を行って来た。君田は次男慶蔵に嗣を譲り寺に入って僧となった。僧名を快遵、仮名を宝乗坊と称した。嘉永六年の黒船の来航に際し、国内の若者は国の将来を愁い、尊王攘夷の運動に走るようになったが、君田も四十三歳の不惑の年に達していたが、安政元年法衣わ捨て勤王の志士として活動するようになった。日柳燕石、井上文郁や小橋一族とは同志として行動を共にし、野城廣助、長谷川正傑等も盟友として志士活動を展開した。
 君田が美馬郡美馬町の願勝寺(真言宗)四十四代の住職の時、総代及び末寺総代が本堂の修復を勧めた際、その計画を頑として聞き入れず、「今寺院修の時にあらず、国家修復の秋(とき)なり」と語ったという逸話が残る。慶応元年琴平に潜伏中の高杉晋作を高松藩の捕史が寓居を急襲した時、日柳燕石、美馬君田は同日就縛さた。明治元年一月初旬燕石と共に出獄し、その後は琴平に塾を開き子弟を教育した。

日柳燕石

 日柳燕石は文化十四年三月十四日、讃岐国那珂郡榎井村字旗岡(現香川県仲多度郡琴平町榎井一〇八番)にて出生。父親は惣平兵衛、母は畿世という。幼名は長次郎、諱は政章、字は士煥、耕吉と称し、号は柳東と云った。八歳で石崎近潔、十四歳で三井雪航について学んだ。十五歳の頃には「四書五経」はいうまでもなく、「春秋左氏伝」「文章軌範」を暗誦するようになったという。彼は任侠の士であったが、詩文の学才をそなえた勤王家とした。彼の家は地主兼質屋であったが、丸亀・高松藩の政治に批判的で、藩民たちの困っている実情を目撃してから義憤を感じそれが公憤となって、勤王精神にもとづく実践運動へと進んでいった。
 讃岐に於ける勤王運動は、水戸藩との関係もあって大義名分を明かにする尊王論を中心として発展し。その伝統を受けて幕末には高松藩・丸亀両藩や在野の志士達が活動を開始したのであるが、燕石は特に著名な勤皇家として知られた。円座村の勤王家小橋安蔵一族、藤川三渓、土肥大作、美馬援造及び長谷川正傑、野城廣井助等屠一死報国をちかい盟友として国事に尽した。さらに井上文郁と高杉晋作と庇護した咎めにより、捕らえられて高松藩の牢獄に投ぜらたが、鳥羽伏見戦争で藩論が一変して燕石は出獄が許されたが、まもなく戊辰の役で北越征討軍の大総督仁和寺宮嘉彰親王の日誌方として従軍し、越後柏崎で熱病にかかり陣中で歿した。
 気脈を通じた志士、文化人は長州の久坂玄瑞、高杉晋作、吉田松陰、伊藤俊輔、土佐の中岡慎太郎、越後の長谷川正傑、上総の野城廣助、津和野藩士椋木八太郎等である。特に庇護を受けた人物には、医師にして漢詩人の河野鉄兜、幕末の儒者森田節斎、及び千葉県に関係の深い柴原和(木更津県権令、千葉県令)藤本欽石、木戸孝充等が挙げられる。燕石の著書に「六快記」「呑象楼遺稿」「燕石詩集」などがある。讃岐の生んだ気骨のある勤王家である。

市原市教育委員会発行 市原地方史研究所収論集      
「野城廣助の事績」谷嶋一馬 著 発行所:制作舎翔 より転載 
▲このページの上へ

Copyright © 2007 道楽悠悠 All Rights Reserved.