【 旅の栞 】

むかしばなし《第四話》:いちはら探訪


【カッパと宝のツボ】

ある暑い夏の日に源左衛門というお百姓が、養老川沿いのキュウリ畑を耕していた。源左衛門が鍬の柄に腰かけて、タバコを一服つけながら休んでいると、川の中から七・八歳くらいのおカッパ頭の変な子供が出て来て源左衛門のおしりをつっくので叱りつけると、子供は平気なもので「お前のオシリはキンケツ(金尻)でシリコダマ(尻子玉)がとれない。おれはキュウリが好きだから、もし呉れれば宝のツボをやろう」とひやかすので、キュウリを投げてやると、子供は川の中へ姿を消してしまった。 源左衛門は、その日家に帰ってぐっすり寝たが、真夜中ふとだれかが庭を歩いている音を聞いたような気がした。翌朝、庭に出てみると水鳥に似た、かかとの無い足跡がいっぱいついていて、うまやの方に続いている。行ってみると馬オケが逆さに伏せてあり、その中に小さな黄色いツボが入っていた。 「ああ、これは昨日カッパが約束したツボに違いない」そしてツボの中には穴あき銭が二つ入っており、源左衛門は大切に保存しておいた。源左衛門は貧乏だったのである時お金に不自由して、ツボの中のお金を一つだけ使った。ところが翌日みるとツボの中には元通り二つ入っている。驚いて試しにまた一つ持ち出して使ってみたが、何時のまにか元の二つにふえているというわけで・それから源左衛門はお金持ちになって不自由なく暮らしたという。しかし、その子孫に心掛けの悪い人がいて、バクチにカッパのツボの金を使い、しかも一時に二つ持ち出して種金を残しおかなかったので、ツボからお金が出なくなってしまった。今でもこのツボは源左衛門の子孫に当たる旧家に家宝として残っている。 この壷は黄瀬戸の湯こぼしで徳川時代の焼き物だという。民族学者は、カッパは水神の変形で、キュウリの出来るころは百姓が田に水を引く大切な時期だと説明している。 朝日新聞・千葉版連載(昭和三十年三月四日版) 寄稿 平野元三郎


【とっくりべ】

八幡の方から東の方を見ると、台地上を郡本から山田橋方面にかけて木が鬱蒼と生えている。昔はこの地域には多くの鳥や獣がいたようだ。特にサギが多くいて、夜になると五所や八幡の田圃に沢山飛んできた。小川や田圃の魚等を捕食にきたのであろう。このサギたちは夜になると光るので、八幡辺りの人は郡本の「トックリベ」と呼んでいた。田圃に光るものが群れているのは異様な光景で、この「トックリベ」は子供心に怖かった記憶がある。 調査 平成元年三月  話者堀口石材店主人 (八幡)

【まんぶち】

引田地区に於いて昔から行われた「まんぶち」と言う子供たちによる虫追いの行事があった。他ではあまり見聞しない行事である。 ある程度伸びた稲の苗を束ね、その穂先をくくり人形をつくり、その穂先の部分(多分紙で穂先の部分をくるむ)に「へへののもへじ」を書いててるてる坊主のようなワラ人形を作り、各自が持ち寄り一本の棒に通して、部落から三山塚までかついで行き、三山塚の所でネネシ(イネムシ)
を追う文句を称えながら、その人形を棒で何回も叩いた。その人形はイネムシに見立てたものであろう。この虫追いの行事は近年行われなくなった。 調査 昭和六十三年二月十一日 話者 宮田氏(名前不詳) 調査者 谷嶋一馬 (引田)

【へぇとのこんぶくろ】

さにしの風ょ吹き始めるとな、八日ぐれぇは吹きやまねぇな、そんで、こんかぜんほとをサニシのは八日ふきちゅうてだ。なんしろ八日もふかれたんじゃ、あがったりだょ。こんかぜが吹き始めると、へぇとの稼ぎ時でょ、てぇげのもいは家にいっからさ、そこをねらって村中まあって歩くだ。
そんでょ、正月の餅を欲しがるだょ、餅は長持ちすっからな。あれらが持ってる「こんぶくろ」んなはにゃ、餅や米だんいろんなもんがへぇていたべょ。そんなこってサニシがひぃと「乞食」のかせぎどひだったはら、こんかぜんほとを「へぇとのこんぶくろ」ちゅうだ。
☆ へぇと  乞食のこと
☆ こんぶくろ 雑多なものをいれる袋
取材 平成十五年 話者 山口範芳

【一杯の水に生き返った神様】

いつの頃から明らかではないが、今津朝山村に一人の旅人が、旅の疲れと空腹で、疲労困憊いまにも倒れそうな様子で、とぼとぼやって来た。立つのも、歩くのも難儀な様子だったので、里人はかわいそうに思い、一杯の水を差し出すと、いっきに呑みほし「おかげで胸が安らいだ」と元気を取り戻し、その里人に丁寧にお礼を言い、「安旨」の姓を名乗るようにといって立ち去った。
その旅人とは、春日神社の仮の姿であったのである。それ以来、その里人の家では「安旨」の姓を名乗るようになったというそして一反歩の田にモチを作り、春日神社の祭礼には、その田で作ったモチ米で神前に奉納する習わしとなった。また神輿の渡御の際には必ず安旨家に立ち寄るしきたりであった。〔今津・安旨家に伝わる伝承  付記 安旨家 今津朝山〕
話者 小高廉三 調査者 石黒修一 谷嶋一馬 調査日 平成十四年八月二十五日

【田道伝】

日本書記 仁徳天皇五十五年条 五十五年に、蝦夷、叛けり、田道を遣わして撃たしむ、則ち蝦夷に敗られて、伊峙水門に死せぬ、時に従者有りて、田道の手纏を取り得て、その妻に興ふ、乃ち手纏を抱きて縊き死ぬ。時人、聞きて流涕ぶ是の後に、蝦夷、亦襲ひて人民を略む。困りて、田道が墓を掘る。則ち大蛇有りて、目を発瞋して墓より出でて昨ふ。蝦夷、悉に蛇の毒を被りて、多に死ぬ。唯一二免るること得つらくのみ、故、時人の云はく「田道、既に亡にたりと雖も、遂に讎を報ゆ、何ぞ死にたる人の知無からむや」といふ。 『頭注』 「姓氏録」 □ 河内皇別、止美連の条に「尋米津公同祖、豊域入彦命之後也、四世孫荒田別命男、田道公被遣百済国。娶止美邑呉女。生男持君、三世孫熊次、新羅等。欽名天皇御世参来」と見える。
□ 伊峙水門。上総国夷しみ郡(夷隅郡・勝浦市とする説)と陸奥国牡鹿郡石巻の説がある。
□ 蛇を霊物とする考えや、蛇と死者とを連想する考えからつくられた(津田左右吉)

【今津・瓶塚の田道伝説】

国書に仁徳天皇五十五年、蝦夷叛す。将軍田道を遣わし、之を討ちせしむ。田道将軍敗れて死す。士人之を収痙す。后蝦夷其塚を發く。大蛇あり、中より出て虜み殆ど尽くす。又世人海上郡(今の市原市)に田道の墓ありと云ひ伝える処は、今津朝山・春日神社境内西方の里道を隔てて瓶塚と云える場所なり。土中に瓶埋めも松樹にはかからざるに依り、士人の謡える歌に
朝山とめぐり尋ねて来てみれば
松にからまぬ瓶塚の藤
とあり、此歌碑に刻し現存す。中古松樹の枯れたるを植替んとして、士人傍らを穿ちしに塚より大蛇出しかば恐れて其事を止め、后塚の上に登ることを禁ず。方今尚然りと、以上の諸国史に載する所と符号せるを以って、推考すれば、村人の口碑に伝ふる所、敢て誣言にあらざるべし。(市原郡誌所収)

【春日神社々伝】

春日神社の祭神は武甕槌命・經津主命・天皃屋根命・比売大神とを祀る。その由緒は鎮座年紀未詳、伝えて将軍田道の勧請するところという。(社伝後半に前掲と同文の田道伝説を載せる=郡誌)

千葉県市原市「市原を知る会」問い合わせ先 0436-22-3817 谷嶋一馬。

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