【 旅の栞 】

海浜部集落の信仰:いちはら探訪

船 霊 様

板子一枚下は地獄だと云われる漁師や船乗りは水神様や厳島神社を観請して信仰し、航行中や漁撈活動中の安全を祈願した。また船には必ず船霊様を祀った。水神様や厳島神社はその土地の産土神として篤い信仰は継がれて居るが、海が工業地帯となって約半世紀を経た今日船霊様に関しては海で生きて来た人達からも忘れられつつある。 (船舶絵画 五大力船 船の科学館−バ−チャル博物館から転載)

船霊は船玉・船魂とも書き、船中に祀られた船の守護神である。この船霊信仰は奈良・平安時代には信仰されていた事が「続日本記」第二十四巻天平宝字七年(763)八月の条に「壬午。初遣高麗国船名日能登 帰朝之日 風波暴急漂蕩海中祈日 幸頼船霊平安到国可必請朝廷」とある。「能登」という船名の船が朝鮮の高麗から帰国の途中暴風に遭い海中を漂流沈没寸前船霊に無事平安を祈願したところ、さしもの荒波は静まり無事帰国できたと記している。

船霊様は中型船以上の木造船には必ず祀ったが、船大工が深夜ひそかに祀り込んだので船頭や漁師たちは船霊の実態を知る人は少ない。安房郡和田町の例では檜の角材に穴を掘り檜の板屋根と基壇をつけお宮を造り、男女の人形、サイコロ、銭12枚(十二銭)五穀(米、麦、大豆、小豆、ささげ)を半紙に包み女の髪毛と麻、サイコロを添えて祀る。サイコロは目が天1地6にする。1を天、2を地として祀ることは船の重心が下部にある方が安定するからである。賽の目には、2はオモガジ・にっこり。3はオモテ・みあわせ。4はトモ(艫)しあわせ。5はトリカジ・ぐっぴり。という語呂合わせがあるという。(安房博物館・刊行資料より)

市原では江戸中期頃より五大力船が物資の輸送に重要な役割を果たしたが、昭和初期にはその船影を見ることがなくなった。昭和48年、筆者と大室晃氏とで姉崎川崎の船頭・小高綱次翁等より五大力船に関する調査を行った。その際の船霊様の説明によると、女の髪の毛、櫛、簪、紅(化粧品)穴空き銭数枚、船大工の造ったサイコロ二個をセットとして帆柱の基部に穴を開けて其処に祀った。二個のサイコロは三を表に四を裏側にしておいた。三と四に語呂合わせがあって三は「オモテ・しあわせ。四はともしらが。と言い船霊を収納するところを「ツツ」と呼んだという。今津地区にも同様の語呂合わせが伝承されていた。

小型漁船には船霊を祀る例は少ないが今津朝山では胴の間(船の中央部)の帆柱の基部に小穴を穿ち、そこにサイコロを一個だけ船の守り神(船霊様)として祀ったという。やはり賽の目一を上に六を下にする一天六地の決まりを守っていたようだ。また漁師は船の船霊とは別にサイコロ一個を身の安全を守る為に懐中に所持していたという。

(付 記)

1.安房地方では船主の妻や娘の髪の毛を賽子(サイコロ)や人形や五穀等と共に祀ったという。女の髪の毛を編むと強靭な綱となり災難から守るということから一緒に収納したと云う。また、出漁した船が無事に帰港できることを願って干からびた蛙も一緒に祀る例もあると云う。(対馬郁夫氏ご教示)

2.今津地区の小型漁船には帆柱の下部の「エチゴジリ」に縦・横10センチ程の船霊祭祀の穴を穿ち、神官より戴いた木製の守り札と賽子をお祀りしたと云う。(潤間一也氏99歳ご教示)

3.サイコロの賽の目を一を上に六を下にして祀るのは、船の安定を守ることを祈願することであるが、新造船の船卸の際に船大工の機嫌を損じると賽の目を一を下に六を上に祀るようなことをされると云う。船は上荷が勝つと安定性が悪く強風に遇うと横転することがある。船霊様の祭祀物の中でも賽子は船の安全と安全を祈願する最も重要なものであると云える。

落合三代次・谷嶋一馬共著 『失われ行く浜言葉 付編 浜の伝承と民族』千葉県市原市の「市原を知る会」から発行。問い合わせ先 0436-22-3817 谷嶋一馬。 『失われ行く浜言葉』から転載いたしました。(平成十九年八月 国会図書館・献本 十二月 ドイツ・ベルリン国立図書館・献本)

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