【 旅の栞 】

むかしばなし《第一話》:いちはら探訪


【河岸に響く法螺の合図】

第二次世界大戦中、富津沖に防衛網が付設され、アメリカの潜水艦が内湾に潜行するのを防いだ。この防衛網が付設されるまでは内湾では鰯が回遊し5〜9月頃まで、子晒網による鰯漁が盛んに行われていたが、防戦網が付設されてからは鰯の回遊はなくなり、今津や青柳浦で行われていた子晒網は八田網による鰯漁はそれ以来廃れたが、その漁船が漁を終えて河岸に着くと漁師達は法螺貝を吹いて帰着の合図をした。また北青柳に一軒あった湯や(銭湯)でも漁船の帰着に合わせて法螺を吹き入浴の出来る合図をしたという。

漁を終えて村の河岸に帰着した時の合図に使った法螺貝が北青柳の公民館に二個保存されており、その二個の法螺貝は持ち歩き出来る様に口縁部に穴が明けてあり紐が通してある。この法螺貝について小倉澄夫氏は歌口(口金)の構造から、出羽三山の修験者の吹く三音半・二音・一音半の音色(高・中・低音)に吹き分けることは出来なく、単音で合図に使用する事に止まるが、この法螺の音は2〜3キロも離れた村まで聞こえた。そしてこの法螺が鳴ると遠くの村々から漁船の着いた河岸に鰯を買いに来たという。

ちなみに子晒網とは一隻の船に2〜3人の漁師が乗り、鰯の群れを見つけると、長い筒型の袋網を流し呑み込むように一網打尽にした。鰯が群れていると海が白くなる程で、そのときの漁獲は一隻の船が満載になる程獲れたと云う。子晒網漁は管見の範囲では主として今津・北青柳浦で行われ、八田網は玉前浦で行われて居たことが当地の竜宮神社に、八田網漁の乗り子の寄進した手水鉢がありその銘文から玉前浦で八田網漁が行われて居た事を伺い知ることができる。八田網は浮敷網の一つで、二隻の網船が網を張り魚が上に来たとき引き上げる漁法であるが、何時頃まで行われていたのか明らかではない。漁師が虚空に向かって法螺を吹き鳴らす姿や、笊など持って鰯を買いに集まる女達など、昭和中頃まで青柳の前川や今津川の河岸の風物詩のひとつであったが近時その情景を知る人は無くなった。

   《付記》こざらし網   参考 野崎薫著 「今津のあゆみ」
昔は今と違って五月から九月にかけてイワシやサンマが青柳・今津の浜で豊富に獲れた。特にイワシは子晒網(こざらし)という網で獲った。一隻の船に二〜三人乗り組み、イワシの群れを見つけると、長い筒形の子晒網を流し、この中にイワシを呑み込むようにして一網打尽に獲った。私達の記憶にも今も、子晒網の船が今津川や前川のカシ(川岸・・・船溜り)に着くと、法螺貝を吹いて船の帰着を知らせ村中に法螺の音が響き渡り、これを合図に各戸思い思いの器を持ってカシの船溜りに集まったのを覚えている。

【マムシの封じ山】

昭和二十年から三十年前半、祖父とゴエモン風呂に入り、いろいろ昔話を聞かされた。大正六年の大津波に母屋(茅葺屋根)が流されそうになり、欅、楠、榎柿の大木に漁業用のロ−プで繋ぎ流失を防いだ事。母屋の土台は丸い束石に乗っているだけで固定されていない為、元の場所には材木でてこの作用を利用してみんなで協力して持上げたそうです。

大正十年、出羽三山に村中で登拝した話では、ここから出羽まで徒歩で行き、乗り物は乗らないこと、青柳から船橋まで十里(約40q)が一日の宿である。当日は養老川に橋が無く渡し船で出津に着き、道路が悪く草鞋がすり減るので裸足で歩き宿の手前で草鞋を履いたそうだ。(檀所院星野養星坊の記録は総員43名)五十年程前に祖父から小さい法螺貝を貰い、家の中で吹いたが音が出ない、なんとか単音が出るようになると、子供が吹いてはいけないと父に叱られた記憶がある。歌口が取れていたのだ。二度の母屋と物置、スキバの立替で不明になった。

3〜4月頃はホント(カネ蜘蛛)を木の棒に二匹対面に乗せると、激しく長い前足で威嚇攻撃をして相手の尻に前足が触れると触られた相手は木の棒から降りる。これで勝負が決着する。長い前足のホントが欲しく、荒らされて無い場所を探し廻ることになる。 休戸の海岸より正面が祭礼時の神輿のお休み場があり、竜宮神社のやや北側の田んぼの中に篠竹に覆われた塚があり中央に松の大木がそびえている。ここには型の良いホントがいるらしい噂を聞いて行くと、デカイ蜘蛛が沢山いる。空のマッチ箱の中に仕切りした引き出しに何匹かしまいこんだ。後日、父親にここの場所に足を入れてはいけないと叱られた事があった。

北青柳に何故かマムシがいないが、青柳台の天王河原地区(現千種中学校)はマムシの巣があるので入ってはいけないと注意されていた。前川沿い、六枚あらふの松ヶ島の村境の小川沿い、飯沼、島野、は県道を境に恵廣六、浜折、七田切にも居ないという。以前、狐が住んでいた喜兵衛新田にもマムシは住んでいないと聞いていた。北と南に川に挟まれた北青柳に何故マムシがいないのか、大雨で川が増水すれば上流から流れてくるだろう。長い間不思議にしていたことである。
先日、従兄の根本末夫との話の中で昔、マムシが出ないよう、塚を築きお祈りをした場所があった。マムシ封じの山(篠竹に覆われた塚があり中央に松の大木)と彼の祖父から名称を聞いていたのです。工業地帯の造成でこの山は消えてしまい写真すらないのです。松の大木の太さは子供の記憶で1メ−トルはありました。推測するにおよそ二百年以上昔の山であった事でしょう。  「マムシの封じ山」 執筆者 小倉澄夫


千葉県市原市「市原を知る会」問い合わせ先 0436-22-3817 谷嶋一馬。 

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