【古代上総の道】

上総国嶋穴駅周辺の古代水陸交通路

第1図 嶋穴郷と古養老川と海上潟

一 嶋穴郷と海上潟

はじめに

 小稿は、嶋穴駅の所在する上総国海上(うなかみ)郡嶋穴郷が、大化以前から大和政権の上総地方経略や伊甚屯倉(いじみのみやけ)経営における水陸交通路の要衝であったことを指摘し、大和政権の房総経営の目的にそって設定された上総西岸部の国造領連結路とその拠点が、のちに東海道の経路や駅にほぼ踏襲された可能性のあることを論じたのち、大前駅、藤潴(ふじぬま)駅、嶋穴駅の所在地を推定して、それらを結ぶ駅路の道筋の復原を試みたものである。
ただし、国造領連結路とその拠点について述べた部分は、その存在を明示する資料は皆無であるので、いたずらに憶測を重ねる結果にならざるをえなかったものの、駅の所在地の比定や官道の経路の推定・復原にとって、大化以前の水陸交通路も考慮してしかるべきであろうという考えから、あえて国造領連結路とその拠点について憶測を述べてみた。

第1図 嶋穴郷と古養老川と海上潟(Aは嶋穴神社、Bは嶋穴駅推定地の七ツ町)この地図は、建設省国土地理院の承認を得て、明治十五年二万分の一迅速測図手書原図復刻版を複製したものである。第5・7・8・9図の地図も同様である。村上地域流路は田所真氏の教示による。▲地点は8世紀〜9世紀代の流路、千葉県文化財センタ−笹生衛氏の報告による。

 嶋穴駅が設置されていた嶋穴郷は、千葉県市原市島野に鎮座する式内社嶋穴神社周辺の地域に比定できる。本来嶋穴神社は、現在地の北およそ百メ−トルの所にあったらしいが、わずかな距離の移動にすぎないので、嶋穴郷を当社周辺の地域に求めてもまったく支障はない。
 嶋穴郷推定地は、房総屈指の河川である養老川の河口左岸から下流左岸にかけて位置している。しかし、古代の養老川(これを古養老川と仮称する)の下流の流路は嶋穴郷推定地の南を蛇行しつつ青柳付近で東京湾へ注いでいた 1(第1図参照。ドットで示した流路)。つまり古代の嶋穴郷は、古養老川の河口から下流の右岸にあったのである。
 第1図に見られるように、嶋穴郷の中心地と目される嶋穴神社(A)と嶋穴駅推定地七ツ町(B)の所在する一画は、東と南と西を古養老川の流れにとり囲まれて島状の地形をなしているので、嶋穴という郷名はこのような地形にちなむものであろう。シマアナのナは、土地を意味する語ナであろうか。とにかく地形的に見て嶋穴郷や嶋穴神社や嶋穴駅が、古養老川とかかわりの深かったことは間違いあるまい。
 嶋穴郷の西側は河口となって東京湾に面しており、そこには海上潟と呼ばれた天然の良港があった。海上潟は、『万葉集』巻十四の東歌の冒頭に、「夏麻引く(なつそひ) 海上潟の 沖つ渚(そ)に 船はとどむめ さ夜更けにけり」と歌われている。「船はとどむめ」と詠まれているので、海上潟が港津として利用されていたことは明白である。海上潟は、古養老川の河口近くに形成された潟湖であろうと推測されるので(2)、河口・下流の右岸に位置していた嶋穴郷に隣接していたと思われる。おそらく嶋穴郷の海岸の前面が海上潟であり、嶋穴郷は海上潟という天然の良港の背後集落であろう。したがって、海上潟を擁して河口・下流右岸に位置する嶋穴郷は、東京湾と古養老川を結ぶ水上交通の拠点となっており、水運に長じた海人が少なからず居住していたと考えられる。
 そうだとすると、嶋穴郷は古養老川を河口から五キロメ−トルほど遡った中流右岸の市原郡海部(あま)郷(市原市海士有木一帯)と関係が深かったはずである。海部郷は、海人ないし海部の集住する所であったがゆえに海部郷と命名されたとみてよい。しかも海部郷が海岸からかなり離れた中流右岸に位置していることは、この地の海人や海部がただの漁民ではなく、古養老川と東京湾を結ぶ水運に携わっていた人々であったことを物語っている。それに関東全域を見わたしても、海部郷は市原郡にしか存在しない。
 この特徴的な事実は、市原郡海部郷の海部が、特殊な歴史的理由によって計画的に設定されたことを伝えている。それは、大和政権が上総地方の経略を進めるにおいても、上総の伊甚屯倉の経営を行う上でも重要な動脈となる古養老川の水運を掌握する必要があったからである。それゆえに、海部郷の海人を関東で唯一の海部集団に設定したのであろう。海部郷の海人は、もともと上海上国造(かみつうなかみのくにのみやっこ)の支配下にあったと思うが、大和政権はこの地の海人を上海上国造からさき取って海部に設定し、強い統制を加えたのである。
 海上潟という港津を擁する嶋穴郷が、同じ古養老川の中流に位置して、水運に従事する海部の居住地であった海部郷と緊密な関係に結ばれていた公算は大きい。嶋穴郷と海部郷は、東京湾と古養老川を連?する水上交通の二代拠点であったと考える。また嶋穴郷は、東京湾‐海上潟‐古養老川‐伊甚屯倉を結ぶ水陸交通路と、房総半島の西岸部に集中的に設置された諸国造の領域を縦走して連結する陸上交通路とが交差する十字路にあたっていた。大化以前から水陸交通の要所であったからこそ、この地はのちに東海道の経路となり、嶋穴駅が設置されたのである。なお、嶋穴郷と養老川が伊甚屯倉の経営ル−トとなっていたこと、国造領連結路が嶋穴郷を経由していたことは後述する。


市原市文化財研究会紀要第一輯
上総国嶋穴駅周辺の古代水陸交通路
市原市文化財研究会 著作 前之園 亮一 共立女子短期大学教授
 
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