【古代上総の道】

古代上総国の嶋穴駅と官道U

第2図 嶋穴郷・稲庭郷推定図

(一)古代嶋穴郷に於ける地理的条件

嶋穴駅の究明にあたり、古墳時代以降の海上郡の地勢や地理について検討する必要がある。
 市原の自然地形の中で、最も変換の激しいのは養老川の流路である。航空写真や土地条件図には養老川の旧河道が幾筋も明瞭に認める事が出来る。大きな洪水や、氾濫の度に流路が変わる荒れ河であった。
 養老川の流路を概観すると、市原南部から洪積台地を開析して、馬立附近まで安定した流路を保っているが、小折、柳原附近より冲積地の砂堆層となり、その砂堆を浸食しながら蛇行を発達させて行くが、自然堤防が低い地域では、洪水時に流路が変わりやすくなり乱流が繰返えされた。樋口義孝氏の研究によると、養老川デルタ地帯には旧河道は五井側の現養老川から、島野南部の間にA〜Iまでの九本の河道が確認され(1)、その内島野南部を流れるE流路(以下古養老川とする)の下流は現前川であるが、この流路は最も古く、巨大な河川であったと推定された。この古養老川の流路は、小折、柳原附近から西進して流れ金ヶ原東部でメアンダ−を形成し、再び西進して白塚北部から急に流路を北に向け、青柳浦に注ぐ、古代には相当な大河であった事が、前川流域の地形からも窺うことが出来る。青柳字天王河原の八雲神社の社伝に(2)「上古此地に一流の大河あり、水上乾かず産物殖せず、空漠たり・・・」とある。
 この天王河原附近が丁度、西進する古養老川の流れが、急角度で北に向かって流下する曲流部に当たり、同河の氾濫時には、相当の水流が直進し、その都度水災に見舞われ、自然堤防に流砂の堆積を重ねたものと考えられる。
 昭和六十三年度に、天王河原地区に分布する円墳状の塚「青柳塚群」の発掘調査が、市原市文化財センタ−によって行われた。調査の結果、この塚群は古墳や、近世の塚と異なり、自然堆積による塚である事が確認された。予期せぬ結果で調査は終わったが、当地の古地理や地学の研究には極めて重要な遺跡である。
 この塚群の成因は、洪水や氾濫によって運ばれたWaterCurrentによる流砂の堆積層とみられるものである。この堆積層の中から多くの遺物が検出されたが、この遺物はいづれも古養老川の歴史を示すものである。調査が行われた十一基の塚から検出された遺物は、縄文時代早期に属する条痕文土器や、弥生土器、土師器、陶器、磁器、土鍋、カワラケ等が各層より出土した。その年代幅は一万年に及ぶ時間、空間をこの地域に流れていたことを示すものである。高橋康男氏は報文「青柳塚群」に於いて本塚群の成立について「各塚は、一基の例外を除いて、砂のみにより構成されている。灰色の粘質土のブロックがわずかに認められる場合もあったが、ごく微量であった。現況においては、周囲は水田あるいは畑、宅地であって、砂の露呈は認められない。したがって、時期的には不明であるが、塚の成立は砂の露呈が、広い範囲に及んでいた時期と考えるのが妥当であろう(後略)と述べられている。(3)砂の露呈されていた時期を特定する事は困難であるが、縄文時代以来上流から押し寄せた流れが激流となって、曲流部に当たる天王河原に直進し、氾濫原からの比高三〜五米に砂流が堆積し、塚状の形態を留めたものと推量される。「青柳塚群」の調査は、古代嶋穴郷の地勢や地理研究上貴重な記録であり、前途の樋口説を裏付けるものである。この二説を踏まえて、古代嶋穴郷の地理的環境について検討してみよう。
 今津川附近から青柳浦に注ぐ前川は、古養老川(E流路)の名残である事は、樋口に依って明らかにされたが、律令は滔々と嶋穴郷の南西部を流れていたと想定できる。金ケ原東部に大正頃まで、古養老川のメアンダ−の名残である河道の一部が長さ一三〇〇米、最大幅一五〇米の堰(古川堰)として残存していた。したがって、嶋穴郷は東・西・南の三方が、古養老川に囲まれていた事になる。嶋穴の地名の語源は、水に囲まれた土地の事を云うという説があるが、将にその通りの地形に位置する。
 古養老川の下流域には氾濫原特有の島畑野が濃密に分布し、駅馬飼育の牧草地として最適な地形である。駅馬設置の条件として、大宝厩牧令諸道置駅条に「凡諸道須置駅者 毎三十里置駅 若地勢阻険及無水草處 隋便安置 不限里数 其乗具及蓑笠等 各准所置馬数備」とあり、水と草のある所が駅設置の基本的条件である。その水場は、古養老川の河道の一部である古川堰の北端から分岐して、宮川が嶋穴郷の中央部を東西に貫流し、嶋穴神社前を西進して前川と合流する。この宮川は当地の水田地帯を潤す灌漑用水として重要な河川であるが、駅家に於ける馬の飼育等不可欠な水場でもあり、駅戸の管理する駅起田等の用水として、重要な役割を果たしたと思われる。
 古養老川の下流域には氾濫原特有の島畑野が濃密に分布し、駅馬飼育の牧草地として最適な地形である。駅馬設置の条件として、大宝厩牧令諸道置駅条に「凡諸道須置駅者 毎三十里置駅 若地勢阻険及無水草處 隋便安置 不限里数 其乗具及蓑笠等 各准所置馬数備」とあり、水と草のある所が駅設置の基本的条件である。その水場は、古養老川の河道の一部である古川堰の北端から分岐して、宮川が嶋穴郷の中央部を東西に貫流し、嶋穴神社前を西進して前川と合流する。この宮川は当地の水田地帯を潤す灌漑用水として重要な河川であるが、駅家に於ける馬の飼育等不可欠な水場でもあり、駅戸の管理する駅起田等の用水として、重要な役割を果たしたと思われる。
 嶋穴集落の北部一帯は、島畑野の連なる南部とは対象的に、肥沃な水田地帯が広がり、古墳時代より有望な可耕地として、冲積地帯では最も早く開発され、安定した生産基盤を背景に拠点的集落として発展し、班田集落として律令体制の中に組み込まれ、駅設置に至ったと推定される。


市原市文化財研究会紀要第一輯
古代上総国の嶋穴駅と官道
市原市文化財研究会 著作 谷嶋一馬
 
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