【古代上総の道】

上総国嶋穴駅周辺の古代水陸交通路

三 伊甚屯倉の経営径路

 『日本書紀』安閑天皇元年四月条に、伊甚屯倉設置の由来を語る伝承が記されている。内膳卿膳臣(かしわてのおみ)大麻呂は勅命をうけて、伊甚国造稚子直(わくこのあたい)に珠を貢上するように下命した。しかし、稚子直らは期限に大幅に遅れて上京したので、怒った膳臣は彼らを捕縛して詰問した。稚子直らは恐慴して春日山田皇后の寝殿に逃げ隠れたので、皇后は驚きのあまり卒倒してしまった。稚子直らは、皇后に伊甚屯倉を献上して後宮?入の重罪を贖ったという。
 伊甚国造の領地をさき取って設定された伊甚屯倉の設置年代は、安閑朝(五三〇)よりさかのぼる可能性があるが、その領域は「今分かちて郡として、上総国に属く」とあるので、かなり広大であったことは間違いあるまい。夷?郡(夷隅町、大多喜町、御宿町、大原町、岬町)のみならず、その北の埴生郡や長柄郡の一部まで含まれていたであろう。伊甚屯倉の経営は、大和政権側からは大伴連(6)、膳臣(7)、久米直(8)、和珥臣(9)、車持君(10)、我孫公(11)、らが関与したらしい。また、伊甚国造をはじめ武者国造(12)長狭国造(13)須恵国造(14)馬来田国造(15)上海上国造(16)など上総・安房の諸国造も、伊甚屯倉の開発・経営に必要な労働力等の提供を強制されたりして、協力を余儀なくされた形跡がみられる。
 つぎに伊甚屯倉の経営・輸送径路について考えるにあたって、伊甚屯倉の領域の北に長柄郡車持郷(長南町蔵持・笠森一帯)があり、古養老川下流に海部郷と河口に海上潟が存在することは注目してよい(第2図参照)。つまり伊甚屯倉から東京湾に至る房総半島中央部に、陸運、水運にたずさわった車持部、海部の集住地や港津が点在していることは、看過できないのである。それに関東全域を見わたしても、車持郷と海部郷は上総の長柄郡と市原郡にしか存在しない(17)。伊甚屯倉の周辺に限って車持郷と海部郷が分布するということは、特別な歴史的理由によるものにほかなまい。長柄郡車持郷と古養老川中流の海部郷は、伊甚屯倉の経営・輸送に資する目的で、そのル−トの要所に計画的に配置されたと考えてよい。
 思うに、珠をはじめとする伊甚屯倉からの貢上物品は、車持郷の車持部(18)によって古養老川中流の市原市江子田付近まで陸送され、そこで海部郷の海部の川船に積みかえて(19)から古養老川を下って下流の海部郷ないし河口の海上潟において大型船に再度積みかえたのち、東京湾を渡って三浦半島へ至ったか、海路遠く大和へ運漕されたのであろう。
 伊甚屯倉−長柄郡車持郷−古養老川下流の市原郡海部郷−嶋穴郷海上潟を結ぶル−トこそ、伊甚屯倉の経営・輸送のもっとも主要で安全な径路であり、嶋穴郷もこのル−トの一環に組み込まれていたのである。さらに憶測すれば、車持郷も伊甚屯倉の領域に含まれていた可能性もあるが、この地の車持部は車や馬による運送のみを担当していたのではないかも知れない。車持郷は伊甚屯倉と海上潟を結ぶ陸上交通路の中継地として、一種の駅的な役割(20)をはたしていた可能性もある。というのは、車持部の伴造の車持君の本拠地は上野国群馬(くるま)郡群馬(くるま)郷(群馬県群馬郡榛名町付近)で、藤原宮跡出土木簡に「上毛野国車評」と書かれているが(21)、『延喜式』兵部省式によるとここに群馬駅が置かれており、右馬寮式には同郡有馬郷の有馬牧が見え、車持部は馬や駅ともつながりが浅くないように思われるからである。推察するに、海上潟から嶋穴郷に上陸して馬に乗りかえたのち、古養老川にほぼ沿って車持郷まで陸行し、そこでまた馬を乗継いで伊甚屯倉の中心部へ至る陸上交通路が、大和政権によって解設されていたのではないであろうか。ここで注目したいのが松原弘宣氏の見解である。松原氏は屯倉の設置は交通路開発と関係が深く、屯倉は宿泊施設や交通機能を有していたので、屯倉が早馬を用意した可能性は高い。そして推古天皇十五年(六〇七)以降その制度化がはかられたといわれる(22)。伊甚屯倉の近くに車持郷が存在することは、松原説の妥当性の高さを傍証している。伊甚屯倉の早馬のル−トは、車持郷を中継地として海上潟や、次章に述べる国造領連結路に接続して走水へ至っていたのであろう。


市原市文化財研究会紀要第一輯
上総国嶋穴駅周辺の古代水陸交通路
市原市文化財研究会 著作 前之園 亮一 共立女子短期大学教授
 
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