【古代上総の道】

上総国嶋穴駅周辺の古代水陸交通路


第7図 藤潴駅・蔵波間の駅路の推定A

五 大前駅・藤潴駅・嶋穴駅の所在地と駅路A

 藤潴駅比定地の小字フノドから先の駅路は、第7図に示したように直線状につながる小字界の道を飫富神社の鎮まる台地に上がったのち、大谷氏の指摘された台地上の直線状の道路を蔵波まで北上して東京湾岸に出た。この道路の一部分は大字飯富と大字神納の境界ともなっており、七月二十四日の例祭に飫富神社の神輿が蔵波との間を往復する道でもある。

第8図 蔵波・椎津間の駅路の推定
 蔵波から先は、第8図のように房総街道にほぼ沿って台地下の海岸線を二キロメ−トルばかり北進して袖ヶ浦市久保田の笠上へ至った。ただし、蔵波・笠上間の海岸線ル−トは、波をかぶって使用不能となることもあるので、その場合は、ま上の台地上を進行することになっていたのではあるまいか。その先の笠上と市原市椎津までの約一キロメ−トルほどの海岸は通行不可能であったらしいので、房総街道は笠上から台地に上がってその西緑を北上して椎津へ下りている。駅路も同じ径路をたどったはずである。
 さて、房総街道が笠上で台地に上がったところの路線に、廃寺となった笠上観音の板碑がある。これは谷嶋一馬氏が昭和二十年代に発見されたもので、正嘉二年(1258)の銘を有する千葉県最古の板碑である。(写真参照)。ただし、現在は所在不明となっている。この板碑は、海岸沿いを通る交通路が、十三世紀半ばまでさかのぼることを証明していると思う。また、蔵波と久保田の東京湾を見おろす台地上には、戦国時代の蔵波砦と久保田城が存在していた。これは、戦国時代にそのま下の海岸線に沿って道路が通じていたことを示している。その交通路を扼する目的もかねて蔵波砦と久保田城は築かれたのであろう。

 房総街道は市原市椎津で台地から平地へ下りるが、東京湾を眼下に望む台地端の小字外郭古墳がある。椎津城も外郭古墳もそのま下を通過する道路を抑える関門の役割をもっていたとみてよい。第9図に示したように、椎津から先の房総街道は平地の上をほぼ直線状に嶋穴神社の近くまで至るが、その間約四キロメ−トルである。途中この道に接して大道という小字が姉崎にあり、また妙経寺古墳、二子塚古墳もま近に存在する。
 椎津から先の駅路は、大体房総街道に沿うように走っていたと推測されるが、嶋穴駅推定地の市原市島野の小字七ツ町の手前約一キロメ−トルの白塚において房総街道と呼ばれた古道であるが、古代にはこの道は古養老川によって切断されていたので、駅路の道筋は白塚付近で古養老川を渡って七ツ町の嶋穴駅ほ至っていたのである。古養老川の下流の川幅はかなり広かったらしいが、渡河はさして困難ではなかったであろう。嶋穴郷は水上交通の要衝でもあったから、船や水手には事欠かなかったと思われるからである。
 対岸の嶋穴郷に渡ると、駅路は嶋穴神社の参道の一の鳥居の前を通過して七ツ町に至っていた。嶋穴神社の参道は、駅路に南面してほぼ直角に接続するようにとりつけられている。嶋穴駅は、この神社の近くにあったと考えられる。谷嶋一馬氏は、あらゆる角度、観点から考察されて、嶋穴神社の東方約200メ−トルに位置する七ツ町を嶋穴駅に比定されている。その詳細は本誌に掲載された谷嶋氏の論文に譲るが、七ツ町の集落はほぼ一町四方の規模があり、駅の比定地の条件にかなっているといえる。七ツ町の集落の下に嶋穴駅の遺構が眠っている可能性はあると思われる。
 古養老川が袋状に蛇行して東と西と南を川に囲まれた土地の一画に位置しており、駅家の東ま近い所には馬の飼育に適した広い河原があり、川とのつながりの深い駅であった。古代には河川や湖沼のほとりが馬の放牧地として好まれたが、それは水辺で馬を飼うと龍種の駿馬が生まれるという思想があったからでである。嶋穴駅のあった場所は、そのような思想にかなう土地柄であると考えられたことも、ここに駅が設定された一因であるかも知れない。それは、馬の飼育にたずさわったと推測される湯座部の集住する周淮郡湯坐郷が、やはり小糸川の下流に面する場所に位置して川と関係の深い場所であり、その湯坐郷に大前駅が置かれたこととも通じ合うように思われる。


市原市文化財研究会紀要第一輯
上総国嶋穴駅周辺の古代水陸交通路
市原市文化財研究会 著作 前之園 亮一 共立女子短期大学教授
 
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