【古代上総の道】
【市原の信仰】

青柳地区の出羽三山の信仰

県下唯一の基壇四隅突出型方形三段塚

はじめに
 一生に一度は必ず親の踏んだ道を辿り、お山(出羽三山)に参拝して来ることが因襲として固く守られて来た。三山詣でを済まない者は一人前の扱いにされないという。寺請制度の厳しい江戸時代から市内のどの集落にも三山塚を築き、行屋を作り月次の行事である八日講が行われ修行の場となっていた(写真上 青柳三山塚全景)。
筆者と対馬郁夫氏は、昭和四十九年夏より約三十年間にわたり市原市内に於ける出羽三山信仰に関する悉皆調査を行ってきた。その結果方形三段の形態を呈する三山塚が市原市内に集中的に分布し、市原以外の地域にはその分布は希薄となる傾向が確認された。また、青柳三山塚は四隅突出型で県下唯一の形態の塚であることが分かった。
次に同三山塚上の石塔は、出羽三山関係の石塔としては県下で最古のものであることが確認された。本稿では青柳三山塚の形態と石塔について考察する。

基壇北辺部(南・北隅が突出する)
市原市のどの集落にも必ず三山塚がある。塚の形は饅頭塚型と方形三段の二通りの塚が見られるが方形三段塚が主流である。この方形三段式の三山塚は市原全域に集中的に分布するが何時・何処でこの方形三段という形の定型化が確立したのは明らかではない。青柳の三山塚上に寛永造立の石塔があり、この塚を方形三段三山塚の標式的塚として取り上げておきたい。
 当塚の規模は、底辺二十二米、中段の巾十二・五米、上段の巾七・五〇米を測り、各段の高さは一・四〇米を測り総高は約四・二〇米均正な方形三段の塚である県下では例の無い「基壇四隅突出型三山塚」である。
当塚は市内で最大級の三山塚であるが、当地は海抜二〜三米の海岸平野で、当塚の築造に用いる採土は無い。当塚の盛土は想定の範囲を出るものではないが、当地から東三〇〇米程の天王河原山(小字円馬戸)からモッコで運び構築されたものと思われ、大変な大事業であったと思われる。そこには固い信仰心により結集した村人の存在を無視することは出来ない。


市原地方史研究連絡協議会・研究紀要
青柳地区に於ける民間信仰に関する若干の考察
著作 谷嶋一馬
 
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