- 嶋穴郷と海上潟
- 古養老川と大和政権の上総経略
- 伊甚屯倉の経営径路
- 国造領連結路@
- 国造領連結路A
- 大前駅・藤潴駅・嶋穴駅の所在地と駅路
- 大前駅・藤潴駅・嶋穴駅の所在地と駅路A
- おわりに
- 嶋穴駅についての考察
- 嶋穴郷の地理的条件
- 駅家跡の根拠
- 嶋穴郷の条里地割
- 嶋穴駅と関連遺跡
- 結語
上総国嶋穴駅周辺の古代水陸交通路
二 古養老川と大和政権の上総経略
古養老川は、大和政権の上総地域への進出・支配の動脈であり、伊甚屯倉経営の主要ル−トでもあった。相模の三浦半島から東京湾を渡ってきた大和政権は、海上潟から古養老川を遡って内陸部へ進んだ。そして内房と外房の分水嶺を越え、太平洋に注ぐ一宮川に沿って九十九里平野へと進出していった。その様子は、上総に設置された名代(なしろ)の分布によってうかがい知ることができる。上総で最も古い名代は、応神天皇の皇子額田大中彦の名代と伝えられる額田部である。額田部が集団的に設定された周淮(すえ)郡額田郷は、君津市糠田周辺に比定でき、走水(はしりみず 浦賀水道)に面する周淮郡は、房総のなかでいち早く大和政権が進出してきた所である。そのような所にもっとも古い名代が分布するのは道理であるといえようが、周淮郡の額田部や額田郷については第四章に後述する。
つぎに古いのは、刑部(おさかべ)である。刑部は允恭天皇の皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の名代であり、允恭天皇は五世紀中葉の倭王済に比定できる。第1表に示したように、上総の刑部は、市原郡海部郷と江田郷、長柄郡刑部郷に分布する。つまり古養老川と一宮川の流域に集中しているのである。(第2図参照)。五世紀中葉の大和政権は、嶋穴郷の海上潟から古養老川を遡り、中流右岸の海部郷と上流右岸の江田郷(市原市江子田・吉沢一帯か)に刑部を設定したのち、そこから陸路分水嶺を越えて一宮川上流の長柄郡刑部郷(長柄町刑部一帯)に到達し、そこの住民を集団的に刑部に定めて、太平洋側への進出の拠点とした。
刑部と関係の深いのが、忍坂大中姫所生の雄略天皇の名代長谷部(はつせべ)である。忍坂大中姫と雄略天皇は親子の関係にあるだけに、その名代刑部と長谷部が同一郡内や近隣の郡に分布していることが、第1表に人目瞭然である。この特徴的な事実は、忍坂大中姫の刑部の設定地の近くを意図的に選んで、その子の雄略天皇の長谷部が設定されたことを物語っている。上総における長谷部は、市原郡、海上郡、倉橋郷、長柄郡谷部郷に分布している。海上潟から古養老川へ入った五世紀末の雄略朝の大和政権は、右岸の市原郡と中流左岸の海上郡倉橋郷(市原市栢橋、支流戸田川流域か)に長谷部を定め、江子田古墳群のある市原市江子田付近に上陸して分水嶺を越えて長柄郡刑部郷へ至り、そこからさらに一宮川沿いに下って、一宮川が九十九里平野にさしかかる中流左岸の長柄郡谷部郷(茂原市長谷一帯)の人民を広く長谷部に設定し、ここにも房総東岸部への進出拠点を置いた。ここに至って大和政権は、東京湾に注ぐ古養老川と太平洋に流れこむ一宮川とを連結するル−ト、すなわち房総半島の中央部を横断する支配ル−トを開拓したのである。
このように、長谷部の設定においても刑部設定の場合とまったく同じル−トがとられているのである。これは、古養老川と一宮川が、大和政権の上総進出と経営の主要交通路にほかならなかったことを雄弁に物語っている。したがって、古養老川の河口と下流に所在した海上潟と嶋穴郷も、房総経略の交通的な拠点であったのである。
それはなぜなのかというと、大和政権は雄略天皇の長谷部を一宮川が九十九里平野にさしかかる長柄郡谷部郷に設定して拠点としたのち、ここを分岐点にして九十九里平野を南下して夷?郡に春日部を定め、また一方、北上して武射郡にも春日部を置いたのからである。このように、春日部の設定は長谷部設定の延長線上に行われているのであり、春日部の設置に際しても嶋穴郷の海上潟−古養老川−一宮川という交通路が利用されたのである。思うに、武社国造の上京の径路は、九十九里平野を長柄郡谷部郷まで南下して、一宮川・古養老川沿いに海上潟まで至ったのであろう。また、第四章に後述するように古養老川は、大和政権の安房国長狭郡への進出ル−トでもあった。夷?郡に進出して春日部を定めた大和政権は、次の段階にはこの一帯に広大な大王家の直轄地を設定して、房総経営の重要拠点を築くにいたるのである。
市原市文化財研究会紀要第一輯
上総国嶋穴駅周辺の古代水陸交通路
市原市文化財研究会 著作 前之園 亮一 共立女子短期大学教授
上総国嶋穴駅周辺の古代水陸交通路
市原市文化財研究会 著作 前之園 亮一 共立女子短期大学教授