【古代上総の道】
【市原の信仰】

天王河原山、発見の経筒について

経筒発見の経緯についてT

はじめに
 成田山霊光館に市内青柳台字円馬戸の天王河原山より発見された経筒が収蔵されている。この経筒は文学者であり郷土史研究家として著名であった村上の伊藤 サ(つとむ)氏が寄贈されたものである。
伊藤氏は戦前より県内各地より収集した土器類を中心に多くの考古学資料を所蔵していたが、事情により五井町教育委員会に寄託すべく相談した。しかし、保存施設が無いことから受け入れを断られたことにより、成田山霊光館に寄贈することになったという。
 この経筒の発見された所は、筆者が伊藤氏より伺ったところによると、昭和七年頃、JR内房線の白塚の跨線橋の構築事業が行われた際、天王河原山の土取り現場から発見されたという。 天王河原山は氷河時代より中世末まで柳原付近より姉崎台地に沿って西流した古養老川が白塚付近から北に向かって流路を替えて流れる曲流部分に当たる円馬戸地区に、小山のような堆積砂丘が形成された。地形図から検討すると約一万平方米を測り、高サは筆者の記憶では四〜五米はあった。また天王河原山の西北部に円墳状の塚が十二・三基分布していた。これも同地に突堤状の堆積砂丘が形成しれ洪水の度毎に崩漬・分断されて塚状の形態を呈するようになったと推定される。古養老川は如何に想像を超える大河であったかが容易に想像される。また、円馬戸地区の天王河原山周辺はラグ−ン地形を呈し、某氏の話によると、子供の頃、其處はマムシの巣窟だから入るなと云われたという。
 古養老川の大洪水や波浪により形成された古環境の地形が遺存したが、中世末までは更に荒涼たる様相を呈していたものと推定され、経筒等を埋納するような聖地はなく勝地でもない土地であった。
(註)
1、現地青柳地区は、青柳台、西青柳、北青柳の三集落を併せて青柳一区であるが、江戸時代は青柳村、天王河原村の荷か二ケ村であった。また、天王河原村は白塚の分村であったと云う。
2、天王河原山の周辺にあった塚状砂丘群(発掘調査の折「青柳塚群」とした)は最近完了した区画整理事業により消滅した。

消滅してしまった天王河原山
 昭和十年初頭頃までJR内房線の白塚踏切り番が居て列車の通過時には旗を振って踏切りの安全を守っていたが、その頃、その踏切りの南側で跨線橋の工事が開始されていた記憶がある。 成田山霊光館発行の「考古資料解説目録」によると、伊藤 サ氏が経筒を入手したのは昭和六年と記されているが、誤記ではないかと思われる。筆者の記憶によれば、跨線橋工事中の発見とすれば、昭和十年前後と推定される。  白塚の跨ぎ陸橋構築の盛土の大半は「天王河原山」の堆積土であったようだ。その堆積土の土取り作業の人夫の中に、村上の伊藤氏の家の近くの人が幾人か居り、その人達が土取り作業中に偶然に経筒が発見されたと云う。伊藤氏は文学者として著名であるが、一方考古学に精通し、県内各地より考古学資料を収集していたことでも知られていた。経筒を発見した人達は躊躇せず伊藤氏に届けたと伝える。
残念ながらその後伊藤氏は現地調査していなかった様子で、経筒が天王河原山のどの地点で発見されたのか、また経塚の存在については一切不明である。また、筆者は、天王河原山の土地の所有者の一人である鮎川小太郎氏宅に度々尋ねて、経塚の有無や、経筒の発見地点について伺ったが、具体的な回答を得るに至らなかった。


市原地方史研究連絡協議会・研究紀要
青柳地区に於ける民間信仰に関する若干の考察
著作 谷嶋一馬
 
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