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青柳に富士講を伝えた・日行八我
青柳に富士講を伝えた一山講講元・日行八我について
青柳台の浅間神社に富士講「一山講」の講祖、日行八我の名を刻む石塔(以下八我碑とする)この石塔には当地富士講の先立、三良右衛門が願主として正面に八我の名を刻むが、右側に三右門の戒名を刻んでいる点八我の墓碑とは断定できない。当石塔の刻まれた銘文は次の通りであつた。(正面) 日行八我 〔台座〕 願主 一山講中 三良右衛門
(裏面) 天明八年霜月十七日
(左側) 江戸青山百人町渡辺氏
(八我塔右側銘文) 天明六丙午年 直乗院覚峯信士霊位 七月十八日俗名 三右衛門
この石塔は、八我の墓碑であるという意識が強かった事に依り、何故三右衛門の戒名が刻まれているか理解に苦しんだが、三右衛門は八我の富士講布教に協力し、富士塚等の築造を行った功績者として、没年と戒名を当碑に刻入したものと推察される。
沖本 博氏は、この石塔を調査して県下の富士講石造物としては、「現在のところ最も古く、かつ千葉県下では江戸富士講の最初の上陸地と考えられる。一山講は、この市原市青柳を中心に市原市南部海岸に広まった」と述べられている。
日乗八我が青柳村に来て富士講の布教活動を行ったのは即断は避けたいが、天明の初期であったと考えられる。その根拠は、富士塚上の常夜灯に刻まれた銘文によると塔身に 三國第一山 青柳村講中 右側に 天明六丙午年 十一月十七日 と刻まれており、この塚の築造までの経緯から検討すると数年要したことが考えられ、その布教は天明初頭と思われる。
八我が青柳村を拠点として布教を行うことになった動機は、青柳村には江戸中期頃より五大力舟による回漕業を行う家が数軒あり、この舟の船頭達の誘いによって来たものと想定される。社交性に富んだ青柳の村人と交流が深まり、数年当地に在留するこになり、青柳村を中心に近隣の村々に布教することになった。青柳での止宿先は中村家(現当主中村要蔵氏)であった。
八我が青柳村在留中に行った最大の事業は富士塚の築造である。この塚の規模は底部直径十四米、高サ約四米を測り、頂上に至る階段の両側に富士山の溶岩が並べられ、この階段の中間に伊藤食行身録の石象を納める石祠が設置されている。この富士塚の築造については三右衛門が村人を督促し、築造を完遂した。当浅間神社の八我碑に三右衛門の没年と戒名を刻入したのはこの功積を顕彰する意図を示すものである。
青柳の光明寺の過去帳に戒名ではなく「日行八我」の名で記載されているが当寺住職の説明では檀徒ではないので戒名を授ける事は無いと云う。光明寺のか過去帳に八我の名が記されていることは中村家で葬儀を行ったこしを証する。船で遺骸を江戸の生家に移送する手段はあったと思われるが船頭には死霊に対する強い禁忌があり、中村家では止むなく光明寺の住職を導師として葬儀を行い、中村家の墓地に埋葬したいとという経緯を伺うことが出来る。当然八我に教えを受けた講員によっと盛大な野辺送りが行われたことは想像に難くない。
八我の墓塔に何故三右衛門の戒名が刻入されているのか大きな疑問であったが、青柳に八我を講祖とする一山講が結成され、当地では前例のない富士塚が築造されのは三右衛門の強靭な指導がなかったら実現しなかったと推定される。青柳の一山講の講員はこの三右衛門の功積を顕影する目的で八我の墓塔に戒名を併せて刻入したものと推定される。
また、見落としてならないのは、富士塚の盛土は、当地から四〜五〇〇米離れた天王河原山(今は無い)から運び築造したという。運搬具の無い時代であり、大事業であったが、八我の指導と三右衛門の指導監督と講員の結集した成果であることを銘記したい。
参考文献
沖本 博 「富士講紋について」房総の石仏 第四号一九八六・五
市原地方史研究連絡協議会・研究紀要
青柳地区に於ける民間信仰に関する若干の考察
著作 谷嶋一馬
青柳地区に於ける民間信仰に関する若干の考察
著作 谷嶋一馬