【古代上総の道】

上総国嶋穴駅周辺の古代水陸交通路

おわりに

 小稿は、執筆の依頼を受けてから刊行までの期間が短く、準備も不十分なまま応急にまとめたので、不備な点が多いのは勿論のこと、思わぬ間違いをおかしている所も少なくないのではと恐れるが、諸賢の御比正をいただければ幸甚の至りである。
 市原市は、とりわけ古代の遺跡に恵まれている土地柄であるが、貴重な歴史的、文化的財産である遺跡が開発の波間に次々と姿を消してゆくのは、はなはだ残念である、そのようななかで、JR内房線の新駅建設計画にともなう遺跡の破壊を予防するために、市原を知る会会長谷嶋一馬氏と民間の研究団体である市原市文化財研究会の熱意よって嶋穴駅と古代東海道の遺跡保存の運動の機運が高まっていることは大変喜ばしく、敬服に価する。初期の目的が見事に達成されて、遺跡と歴史的景観が後世に永く伝えられてゆくことを切望する。
 小稿を草するにあたり、なにかと便宜をはかってくださった市原市文化財研究会副会長の瀧本平八氏と矢ケ崎靖馬氏に感謝を表したい。

〔註〕

1 樋口義幸・藤原文夫「養老川」(「市原市史」別巻)、『千葉県文化財センタ−年報』一六
2 千田稔『埋もれた港』、拙稿「上海上と下海上」(『市原地方史研究』一七号)
3 刑部郷、谷部郷は『和名類聚抄』。武蔵国多磨郡の刑部直は『続日本後紀』承和十三年五月二日条。上総国市原郡の谷直(『正倉院宝物銘文集成』)は長谷部直の省略形であろう。海上郡の長谷部は上総国分尼寺址出土瓦銘(須田勉「上総国分寺址の実証的研究」、滝口宏『上総国分寺』所収)。いじみ郡の春部直は『三代実録』貞観九年四月二日条。下野国河内郡の長谷部は下野国府跡出土木簡。他は『日本古代人名辞典』による。
4 茂原市長谷と内長谷には、いずれも舎人という小字がある。これは長谷部舎人と関係があるか。
5 武社国造牟邪臣は『古事記』孝昭天皇段に春日臣(和珥臣)と同祖と伝え「国造本紀」にも和邇臣の祖彦意祁都令の孫彦忍人命を武社国造に定めたとある。
6 『古屋家家譜』(鎌田純一『甲斐国一之宮浅間神社誌』所蔵)に、大伴頬垂連公が上総の伊甚屯倉を掌ったとある。
7 伊甚屯倉の起源伝承に膳臣大麻呂が登場するので。
8 『類聚国史』巻八四・焼亡官物条に、夷?郡税長久米部当人がみえるので。
9 春日山田皇后は和珥臣日爪の娘糠君娘の所生であるから、生母の出身氏族の和珥氏も伊甚屯倉の経営に参加したと思われる。
10 長柄郡車持郡は伊甚屯倉の運送に従事したので。
11 長柄郡車持郷の推定地の長南町蔵持に小字我孫子があり、車持君・我孫公はいずれも上毛野君と同祖と称し、我孫は屯倉の管理にかかわるカバネ、氏名であるから。
12 武社国造は春日山田皇后の出身氏族和珥氏と同祖と称し、夷?郡に春部直が分布するので。
13 いじみ郡の長狭郷は、伊甚屯倉の開発・経営のために長狭国造の人民を移住させた所と考えるので。
14 いじみ郡雨霑郷は天羽郡雨霑郷の重出ではなく、須恵国造配下の天羽郡雨霑郷の民を移住させた所と考えるので。
15 いじみ郡大原町若山に小字馬来田がある。ここは馬来田国造配下の人民を強制移住させた所であろう。
16 上海上国造領の嶋穴郷や海上潟は、伊甚屯倉の輸送ル−トの一拠点となったので、上海上国造も輸送に奉仕させられたと思われる。
17 上野国群馬(くるま)郡群馬郷は車持君の本拠地であり、ここには群馬郷があるのは当然であるから、関東では実質的に車持郷郡は長柄郡にしか存在しないといってよい。
18 車持部が車を使って輸送に従事したことは、志田諄一「車持君」(『古代氏族の性格と伝承』)に説かれている。
19 養老川の水運は大正時代まで行われており、川船による輸送可能地点は、河口から四八キロメ−トルも遡った最上流の夷隅郡大多喜町老川まで達したという(『市原市のあゆみ』)。
20 車持郷推定地の長南町蔵持に古代交通路と関係のありそうな鈴振面という小字がある。
21 『藤原宮木簡』(一−八三)
22 松原弘田宣「令制駅家の成立過程について」(直木孝次郎先生古稀記念会編『古代史論集』上)
23 房総の十一の国造のうち九国造は「国造本紀」に、長狭国造は『古事記』神武天皇段に、千葉国造は『日本後記』延歴二四年一〇月条に見える。
24 千田稔『埋もれた港』、拙稿「淡水門と景行記食膳奉仕伝承と国造」(黛弘道編『古代王権と祭儀』)
25 註22に同じ。
26 藤岡謙二郎編『古代日本の交通路・T』第十四節上総国
27 額田部連・額田部も馬と密接な関係があることは、佐伯有清「馬の伝承と馬飼いの成立」(『日本古代文化の探求・馬』)、本位田菊士「額田部連・額田部について」(『続日本紀研究』二三八号)、井上辰雄「額田部と大和王権」(鶴岡静夫編『古代王権と氏族』)、前田晴人「額田部連の系譜と職業と本拠地」(『日本歴史』五二〇号)
28 『奈良県の地名』(日本歴史地名体系30、四七三頁)
29 養老川上流の市原市加茂、下流右岸の同市加茂は、安房郡長狭郡加茂郷と関係があり、養老川流域と長狭郡加茂郷とが交通路によって結ばれていたことを物語っている。
30 『袖ヶ浦町史研究』四号 31 志田諄一「三輪君」(註十八に同じ)
32 志田諄一「布と招魂」(『古代日本精神文化のル−ツ』) 33 長狭郡加茂郷は本来鴨君とのつながりが深かったが、のちに山城の加茂県主(葛野主殿県主)とも関係が生じたらしい。というのは、加茂県主と同じく主殿寮の殿部である日置氏にかかわる日置郷が長狭郡に存するからである。 34 註26に同じ。
35 註26に同じ。
36 註26に同じ。
37 註26に同じ。
38 大谷弘幸「西上総地域の古道跡−いわゆる鎌倉街道を中心として・・・」(『研究連絡誌』四一号)
39 須田勉「川原井廃寺と古代東海道」(『南総郷土文化研究会誌』一一号)
40 註38に同じ。
41 谷嶋一馬「上総嶋穴駅に関する一考察」(『古代上総国の官道と嶋穴駅』)


市原市文化財研究会紀要第一輯
上総国嶋穴駅周辺の古代水陸交通路
市原市文化財研究会 著作 前之園 亮一 共立女子短期大学教授
 
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