【古代上総の道】

上総国嶋穴駅周辺の古代水陸交通路

第5図 藤潴駅以南の駅路の推定

五 大前駅・藤潴駅・嶋穴駅の所在地と駅路@

 大和政権が開いた房総経路の拠点が、のちに駅の設定地に選ばれた可能性があるのなら、駅の所在地はおのずと限定されてくるはずであり、所在地の比定にあれこれ惑う度合いも減少してもよいと思われるが、これから嶋穴駅の南に置かれた大前駅と藤潴駅の所在地を推定してみることとする。 奈良時代末の宝亀二年(七七一)に武蔵国を東山道から東海道に編入したのにともない、官道の径路も変化し、それまで東海道の本道であった上総国の駅路は、東海道の支路的性格をもつようになった。『延喜式』兵部省式によると、上総国の駅馬は 上総国 大前 藤潴。 島穴 天羽各五疋。 とみえ、四つの駅が設置されてい。これらの駅の比定地については諸説があり、いまだに定説をみない。左の2表は、主な諸説をまとめたものである。
 諸説の特徴や長所、短所については紙数の関係上省略するが、『延喜式』の四駅の記載の順序は、大前・藤潴・嶋穴を一つのグル−ブとしてとらえ、走水を渡海したのち大前−藤潴−嶋穴の順路で北上し、一方、大前−天羽−安房国川上駅−安房国府の順路で南下したことを表しているとみる大脇保彦氏(34)の所説が妥当と考える。
 大前駅の比定地に関しても、富津市本郷の小字厩尻付近とする大脇氏の説(35)が正しいと思う。それは、小糸川下流左岸に位置する本郷は、大化以前から走水につながる水陸交通の要地として、大和政権の房総経営の一拠点であった周淮郡湯坐郷の地であり、駅が置かれるにふさわしい場所だからである。また、大前という地名はこの周辺には存在しないものの、鶴の嘴のように浦賀水道につき出た古津岬(富津岬)は、当時の人々にとって「おおさき」であったかもしれない。という興味深い見解を大脇氏は示されている。私は大前を「おおさき」と読んでよいとすれば、「おお」は天皇や朝廷に関して使われる語でもあるので「おおさき」とは天皇・朝廷の岬とう意味となり、富津岬とその周辺が走水を渡ってきた大和政権の橋頭堡であった事実にも適合するのではないかと思う。
 大前が右のような意味であるのなら、走水をはさんで対岸に位置する三浦半島の三浦と対応関係にある名称となる。三浦は、古くは御浦と表記されていた。『日本書紀』持統天皇六年五月条に「御浦郡」、『和名類聚抄』にも御浦郡御浦郷と記され、御浦の御という漢字、「みうら」の「み」という言葉は、いずれも天皇や朝廷を表すものである。御浦は天皇ないし朝廷の港という意味であろう。そのように解釈すれば、三浦半島が大和政権や律令国家の走水渡海の基地であった事実ともよく符合するのである。そして、大前と三浦がいま述べたような意味だとすると、三浦半島−走水−周淮郡湯坐郷(大前駅)を結ぶル−トは、大化以前の時代から計画的に設定された、大和政権の直轄的な交通路であったといえるであろう。

第2表 上総四駅比定諸説(大脇氏作成の表に加筆)
 大前駅から北上すると藤潴駅に至るる。その推定地は、袖ヶ浦市富納土付近とする大脇説(36)に従ってよいと思う。この藤潴駅比定と大前駅推定地との距離は直線にして約十五キロメ−トル。一方、藤潴駅推定地と嶋穴駅との間は直線でおよそ十二キロメ−トルであり、『令義解』厩牧(くもく)令に「凡そ諸道に駅を置く須(べ)くは、三十里毎に一駅を置け」(三十里は十六キロメ−トル)と規定された駅間距離にかなりよく合致する。
 前章に掲げた第4図「飯富地区小字図」をいま一度みてみると、袖ヶ浦市飯富にフノドという小字がある。フノドは、道祖神(ふなどのかみ)にちなむ小字名であろうか。そのまわりにも中辻子、馬場、東馬場、浜海道、西浜海道などの小字が存在する。しかも・・・線で示したように小字フノドの中央を東海道の推定径路が貫いていたふしがみられる。フノドのすぐ北の台地上端の小字東馬場には式内飫富神社が鎮座し、駅と式内社が一対となって近隣に所在する例は、嶋穴駅と嶋穴神社の例があるので、小字フノドあたりに藤潴駅を比定してもよいであろう。
 つぎに大前駅と藤潴駅とを結ぶ駅路の道筋を推定してみよう。そのうち大前駅から小櫃川に至る径路については、いまだ実地に調査していないので触れないことにするが、駅路は小櫃川を渡って望陀郡飫富郷へ通じていた。飫富郷は大化以前から水陸交通の要所として、大和政権の房総経路の拠点となっていた所である。その郷域の木更津市大寺、井尻を経て袖ヶ浦市飯富の小字フノド付近の飫富駅に至ってと考える。この道筋にあたる大寺には、千葉県最古といわれる七世紀後半の大寺廃寺跡が存在している。大脇氏もほぼ同じル−トを想定されており(37)、最近では大谷弘幸氏が大寺から飫富まで南北にほぼ直線状に造られている古道に注目し、それを駅路の径路として地図上に示されている(38)。ただし、大寺、井尻付近の古道はかなり屈曲しているので駅路の道筋を容易に特定しがたいものの、大谷氏の推定は説得力に富む見解であると思う。
 そこで、もう少し細かく検討するために、もう一度第4図の「飯富地区小字図」を見ると、フノドから南へほぼ直線状に小字界が連なり(▲印で示した小字界)、そのかたわらに馬来田という小字もある。この小字界は、第5図の明治十五年二万分の一迅速測図手書原図では直線状の道路に記され(▲で示した。以下同じ)。今も直線的な県道となっている。一方フノドの北にも小字界が直線状につながっていて、これも道路として使われている。そして、この南と北の二つの直線状の小字界を「飯富地区小字図」上に‐‐‐線を引いてつなぎ合わせてみると、‐‐‐線は藤潴駅比定地の小字フノドの中央に引けるのである。これは、フノド付近に藤潴駅が存在したことと、その南北の直線状の小字界が東海道の径路であったことを物語っていると考える。

第6図 古東海道の推定
 つぎは、藤潴駅から嶋穴駅までの道筋について述べてみようと思うが、それについてはすでに有力な見解が提示されている。それは、第6図に示されている鎌倉街道の径路が、ほぼ東海道に相当するという説(39)である。この説は、推定ル−トに沿って川原井廃寺や神代神社(国史見在社)など、古代の寺社が点在していることからいっても魅力的な見解である。しかし、このル−トは内陸を遠回りしており、迅速な情報伝達や兵馬の移動を目的とする駅路の性格にそぐわないように思われる。それに近年における調査、発掘によって、駅路はおおむね最短距離を直線状に設計されていることが判明しつつあることにも適合しないので、別の径路を探すべきだであろう。
 十年ほど前から市原を知る会会長の谷嶋一馬氏と筆者は、藤潴駅と嶋穴駅の駅路に興味をもって実地に調査したりして、東京湾沿いに径路があったのではないかとかねてから考えていたのであるが、最近になって大谷弘幸氏が同様な見解を発表されている(40)ことを知った。大谷氏によると、飫富神社から台地上にほぼ直線的に造られた道路を東京湾に面する袖ヶ浦市蔵波まで北上し、そこから先は近世の房総往還(房総街道)のような海岸線に沿ったル−トがあったという。大谷氏は蔵波から先の道筋については詳しくふれていないものの、大谷氏の所見は正しいと思う。

第7図 藤潴駅・蔵波間の駅路の推定
 藤潴駅比定地の小字フノドから先の駅路は、第7図に示したように直線状につながる小字界の道を飫富神社の鎮まる台地に上がったのち、大谷氏の指摘された台地上の直線状の道路を蔵波まで北上して東京湾岸に出た。この道路の一部分は大字飯富と大字神納の境界ともなっており、七月二十四日の例祭に飫富神社の神輿が蔵波との間を往復する道でもある。

第8図 蔵波・椎津間の駅路の推定
 蔵波から先は、第8図のように房総街道にほぼ沿って台地下の海岸線を二キロメ−トルばかり北進して袖ヶ浦市久保田の笠上へ至った。ただし、蔵波・笠上間の海岸線ル−トは、波をかぶって使用不能となることもあるので、その場合は、ま上の台地上を進行することになっていたのではあるまいか。その先の笠上と市原市椎津までの約一キロメ−トルほどの海岸は通行不可能であったらしいので、房総街道は笠上から台地に上がってその西緑を北上して椎津へ下りている。駅路も同じ径路をたどったはずである。 さて、房総街道が笠上で台地に上がったところの路線に、廃寺となった笠上観音の板碑がある。これは谷嶋一馬氏が昭和二十年代に発見されたもので、正嘉二年(1258)の銘を有する千葉県最古の板碑である。(写真参照)。ただし、現在は所在不明となっている。この板碑は、海岸沿いを通る交通路が、十三世紀半ばまでさかのぼることを証明していると思う。また、蔵波と久保田の東京湾を見おろす台地上には、戦国時代の蔵波砦と久保田城が存在していた。これは、戦国時代にそのま下の海岸線に沿って道路が通じていたことを示している。その交通路を扼する目的もかねて蔵波砦と久保田城は築かれたのであろう。

正嘉二年(1258年)板碑
 房総街道は市原市椎津で台地から平地へ下りるが、東京湾を眼下に望む台地端の小字外郭古墳がある。椎津城も外郭古墳もそのま下を通過する道路を抑える関門の役割をもっていたとみてよい。第9図に示したように、椎津から先の房総街道は平地の上をほぼ直線状に嶋穴神社の近くまで至るが、その間約四キロメ−トルである。途中この道に接して大道という小字が姉崎にあり、また妙経寺古墳、二子塚古墳もま近に存在する。
椎津から先の駅路は、大体房総街道に沿うように走っていたと推測されるが、嶋穴駅推定地の市原市島野の小字七ツ町の手前約一キロメ−トルの白塚において房総街道と呼ばれた古道であるが、古代にはこの道は古養老川によって切断されていたので、駅路の道筋は白塚付近で古養老川を渡って七ツ町の嶋穴駅ほ至っていたのである。古養老川の下流の川幅はかなり広かったらしいが、渡河はさして困難ではなかったであろう。嶋穴郷は水上交通の要衝でもあったから、船や水手には事欠かなかったと思われるからである。

第9図 椎津・嶋穴間の駅路の推定
 対岸の嶋穴郷に渡ると、駅路は嶋穴神社の参道の一の鳥居の前を通過して七ツ町に至っていた。嶋穴神社の参道は、駅路に南面してほぼ直角に接続するようにとりつけられている。嶋穴駅は、この神社の近くにあったと考えられる。谷嶋一馬氏は、あらゆる角度、観点から考察されて、嶋穴神社の東方約200メ−トルに位置する七ツ町を嶋穴駅に比定されている。その詳細は本誌に掲載された谷嶋氏の論文に譲るが、七ツ町の集落はほぼ一町四方の規模があり、駅の比定地の条件にかなっているといえる。七ツ町の集落の下に嶋穴駅の遺構が眠っている可能性はあると思われる。
古養老川の河口、下流右岸にあった嶋穴郷のなかでも嶋穴駅の所在地は、古養老川が袋状に蛇行して東と西と南を川に囲まれた土地の一画に位置しており、駅家の東ま近い所には馬の飼育に適した広い河原があり、川とのつながりの深い駅であった。古代には河川や湖沼のほとりが馬の放牧地として好まれたが、それは水辺で馬を飼うと龍種の駿馬が生まれるという思想があったからでである。嶋穴駅のあった場所は、そのような思想にかなう土地柄であると考えられたことも、ここに駅が設定された一因であるかも知れない。それは、馬の飼育にたずさわったと推測される湯座部の集住する周淮郡湯坐郷が、やはり小糸川の下流に面する場所に位置して川と関係の深い場所であり、その湯坐郷に大前駅が置かれたこととも通じ合うように思われる。


市原市文化財研究会紀要第一輯
上総国嶋穴駅周辺の古代水陸交通路
市原市文化財研究会 著作 前之園 亮一  共立女子短期大学教授
 
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