【古代上総の道】

古代上総国の嶋穴駅と官道V

第3図 嶋穴郷条理推定図

(二)駅家跡の推定の根拠

 古代駅制に依る駅家の構造や規模については、全国的に発掘例が少なく明らかでない。
 文献によると「駅館院」と称する施設があり、築地に囲まれた一画にあり、築地の入り口には「駅門」を構え、その中に休憩や宿泊施設・倉庫・厩舎等があっただろうと想定されている。日本後紀に「駅館」等は「本より藩客に備えて、瓦葺粉壁」の建造物があったと記され、瓦葺で塗り壁の建築物であったことが知られる。最近発掘調査が行われた播磨国の布施駅家では、礎石瓦葺丹塗で白壁の建物が五棟以上確認され、約八〇米四方の築地で囲まれた駅館院とみられる駅家施設が確認された。(4)
 又同国の「野磨駅家(やまのうまや)」と推定される落地遺跡跡に於いても、門・柵(塀)で囲まれた官衙の政庁とみられる建物群が確認されている。(5)布勢駅家と異なり、落地遺跡跡では建物群はいづれも掘立柱による建物である点である。山陽道の大路に於いて掘立柱の建造物の駅家も存在することは、山陽道以外の中・小路に於ける駅家では、礎石のない掘立柱の建物が一般的であったと類推される。
 上総国の駅馬は、延喜式兵部省諸国駅出馬条に  上総国駅馬 大前、藤潴、嶋穴、天羽、各五疋  伝馬 海上、望陀、周准、天羽郡、各五疋  とあり、嶋穴駅は五疋の駅馬が配置された。
 駅は駅長を中心とする駅戸により維持管理が行われ、その維持は駅起田より収穫される駅起稲によりまかなわれた。 養老田令駅田条に 「凡駅田。皆随近給 大路四町 中路三町 小路二町」と規定している。小路である嶋穴駅は二町の駅起田があったことになり、駅家は駅長を中心に、三〇名前後の駅子が業務に従っていたと推定される。但し、宝亀以前は中路であり駅馬十疋、駅起田は三町を給された。
 以上を要約すると、嶋穴駅の構成は駅家とその附近に三町の面積の駅起田があり、その近傍に駅長を含め、三〇〜六〇余人の駅戸集落があったことになる。嶋穴郷の郷域及びその周辺地域に於いて、野毛遺跡以外、土師集落址はないが、多くの遺跡は八世紀頃あったと云われる海進や、古養老川の大氾濫に依り、遺跡は埋歿した可能性も考えられる。したがって実証資料は得られないが、地名、古代道との関連、条里地割及び駅起田と想定される水田が存在することにより、七ッ町が嶋穴駅跡と推定される。


市原市文化財研究会紀要第一輯
古代上総国の嶋穴駅と官道
市原市文化財研究会 著作 谷嶋一馬
 
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