【古代上総の道】

上総国嶋穴駅周辺の古代水陸交通路

第3図 関東の国造

四 国造領連結路@

 古養老川の下流右岸に位置する嶋穴郷は、大和政権の上総経略、伊甚屯倉経営に不可欠な古養老川の水上交通路および陸上交通路と、房総西岸部の諸国造領を連結する陸上交通路とが交差する十字路にあたっていた。第3図に示したように、房総には十一もの国造が存在していた。(23)さほど広くもない一つの地域に、これほど多くの国造がひしめくように密集している所は、全国的に見ても希である。房総に国造がとりわけ多い理由は、大王家や大和政権ときわめてつながりの深い土地柄であり、この地の諸勢力が大和政権に対して全体的に従順であったからである。
 いま一度第3図をみると、国造は房総のなかでも西岸部に集中し、阿波国造、須恵国造、馬来田国造、上海上国造、菊麻国造、千葉国造など六国造が、踵を接して一列に並んだように数珠つなぎに分布していることに気付く。つまり、このような国造の分布のあり方は、西岸部を南北に縦走する交通路があって、それに沿って国造が設置されていたのではないか、という憶測を生じめるのである。
 大和政権の房総への上陸ル−トで、少なくとも四つの径路があった。一つは、三浦半島から走水(浦賀水道)を渡って須恵国造領の小糸川下流左岸の周淮郡湯坐(ゆえ)郷に上陸するル−トで、これは、倭建命の東征や宝亀二年(771)ごろ以前の東海道のル−トに相当する。もう一つは、三浦半島から東京湾を経て馬来田国造領の小櫃川下流右岸の望陀郡飫富(おほ)郷に着岸するル−ト、あと一つは、三浦半島から東京湾を経て上海上国造領の海上潟ないし古養老川下流の海部郷へ至るル−ト、さらにあと一つは、海路で『古事記』景行天皇段や『日本書紀』景行天皇五十三年条にみえる淡水門(あわのみなと・館山市湊付近)へ上陸するル−トである。このうち走水を渡って須恵国造領に上陸するル−トは、夜間でも両岸で火をともして相図し合えば渡海可能であったので、もっとも主要なル−トであった。いずれのル−トの場合も、上陸後は房総の西岸部の陸路をたどって下総・常陸や安房に向かったのである。
 房総の西岸部の諸国造領を連繋する陸上交通が存在したであろうことは、西岸部の国造の系譜が相互に同祖関係、兄弟関係に結ばれていることからも推定できる。『古事記』上巻によると、天安河原(あめのやすかわら)の誓約(うけい)において、天照大神の御子神として天忍穂耳命(あめのおしほみみ)、天菩比命(あめのはひ)、天津日子根命(あまつひこね)という三柱の神が化生し、そのうち天菩比命は上海上国造の、天津日子根命は馬来田国造の祖神となったという(系図Tを参照)。つまり上海上国造と馬来田国造は、祖先神が兄弟関係に結ばれているわけである。しかも両国造は、地縁的にもつながりが深かった。上海上国造の領域(古養老川左岸一帯と右岸の一部)と馬来田国造の領域(小櫃川流域の木更津・袖ヶ浦市一帯)とは隣接していたからである。

系図
 つぎに、「国造本紀」によると、上海上国造と菊麻国造(領域は市原市菊間を中心とする村田川両岸一帯)も天穂日命(あめのほひ)(天菩比命)を共通の祖とする間柄に結ばれているのみならず(系図2参照)。領域を接して地縁的にも親密である。また、安房の阿波国造も天穂日命の後裔と称し、上海上国造・菊麻国造と同祖関係に結ばれている。須恵国造にしても馬来田国造と同じく天津彦根命(天津日子根命)を共通の祖先とし初代の国造は兄弟の関係になっている。それに須恵国造の領域は、馬来田国造の南に隣接している。
 国造の系譜がどこまで事実を伝えているものか問題は残るものの、要するに、安房・上総の西岸部に一列に並んだように分布する五つの国造は、地縁的につながりが深いのみならず、いずれも兄弟の間柄にある天穂日命か天津彦根命の後裔と称して、系譜的にもたがいに同祖、兄弟の親密な関係に結合されているのであって、けっして無縁・無関係に孤立的に存在しているのではない。したがさて、地縁的、系譜的に親しい関係にあるこれらの国造の領域を貫いて、一つに連結する陸上交通路があっても不思議ではない。かなり古くから房総の西岸部を縦走する道路があって、大和政権はそれに沿って国造を設定していったのであろう。
 それは房総西岸部に限ったことではないようである。もう一度第3図を見てみると、天穂日命と天津彦根の後裔と称する同祖関係の系譜に結ばれた国造が、相模(師長国造、相武国造)から走水を渡り、上総(須恵国造、馬来田国造、菊麻国造)、下総(下海上国造、)を経由して常陸(茨城国造、新治国造、高国造、道口岐閉国造)へ至るル−ト、すなわち宝亀二年以前の東海道にほぼ相当する道筋に連なるように点々と設置されていることは注目に値する。系譜的に親縁関係に結ばれた国造が、交通路によっても相互に連繋されている様子がうかがえるのである。これも、大化以前から相模−走水−房総−常陸を一つに結ぶ交通路があったことと、それに沿って計画的に国造が設定されたことを表していると思われる。
 ところで、松原弘宣氏は、大化前代に国造が早馬を用意する形で成立した早馬制が存在したという注目すべき見解を提示されている。(25)交通路に沿って国造が計画的に配置されていることからいっても、松原氏の所見は極めて可能性が大きいと思う。交通路によって結ばれた諸国造が、順送りに早馬を仕立てた公算は高い。国造の早馬も迅速を旨としたに違いないから、早馬の通過する径路はいたずらに迂遠なコ−スとはならなかったはずである。したがってその径路は、国造が各自思いのままに設定した道路をつなぎ合わせただけのものではなかったであろう。ある程度計画的に設定された、大和政権の息のかかった道路であったと思われる。
房総西岸部の諸国造領を貫通する交通路も、国造が各自勝手に設定したものではあるまい。大和政権の房総径路の目的にそうべく、ある程度計画的に設置されていたと推測される。というのは、大和政権は国造領の一画に房総経営の拠点となる場所をいくつも設置しており、それらの拠点を結びつつ道筋が作られていたらしいからである。
 房総西岸部の諸国造領を貫通する交通路も、国造が各自勝手に設定したものではあるまい。大和政権の房総径路の目的にそうべく、ある程度計画的に設置されていたと推測される。というのは、大和政権は国造領の一画に房総経営の拠点となる場所をいくつも設置しており、それらの拠点を結びつつ道筋が作られていたらしいからである。
 たとえば、須恵国造領の一画の周淮郡湯坐郷(小糸川下流左岸の君津市上湯江・下湯江一帯)と額田郷(小糸川中流の君津市糠田一帯)は、額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)の支配した湯坐部と額田部が集団的に置かれていたいた所であり、そのうち湯坐郷は走水を渡ってきた大和政権の上陸地となっていた(第2図参照)。湯坐郷のなかを鎌倉街道が通り、下湯江には馬乗場という小字があり、湯坐郷の郷城に含まれる君津市本郷の小字厩尻付近は、大前駅に比定されている。(26)また額田部湯坐連は、『新撰姓氏録』(在京神別下)によると、須恵国造・馬来田国造と等しく天津彦根命の後裔と称し、「允恭天皇の御世、薩摩国に遣わされて、隼人を平ぐ。復奏の日、御馬一匹を献ず」と伝える。その支配下にあった湯坐部についても、『日本書紀』大化二年三月条の東国国司の治績を判定した記事のなかに「湯部の馬」が見えるので、額田部湯坐連が馬を管理し、東国の湯坐部が馬を飼育していたことが知られる。大和政権の上陸地にあたる湯座郷に馬を管理した額田部湯坐連葉配下の湯坐部が置かれたのは、大和政権の計画的な交通政策によるものとみてよい。思うに、大和政権は走水から小糸川へ入って湯坐郷に着岸したのち、湯坐部の馬に乗りかえて安房へ南下したり、東京湾沿いに北上したのであろう。
 また、上総と安房の国境をなす清澄山系(房総山脈)に源を発する小糸川は、房総屈指の河川であり、大和政権はこの川を下流左岸の湯座郷と中流の額田郷をつなぐ水上交通路に利用した。中流の額田郷に額田部を集団的に定めたのは、このあたりまで充分溯航できたからであろう。それに額田郷の額田部も馬と関係が浅くなかった。(27)額田部は額田部連の支配も受けていたが、『日本書紀』によると推古天皇十六年(608)八月に額田部連比羅夫は飾馬七十五頭とともに隋使斐世清を大和の海石榴市(つばき)で迎えて「礼(いや)の辞(こと)」を述べ、同十八年十月にも新羅の使者を飛鳥京に迎える荘馬(かざりうま)の長となっている。また、仁賢天皇六年是歳条に高句麗の工匠を大倭国山辺郡額田邑に安置し、これが熟皮高麗(かわおしのこま)の祖となったと伝えるのは、額田邑の馬の熟皮を使ったからであろう。額田部連の大和における本拠地平群郡額田郷は奈良県大和郡山市額田北町・南町に遺称地をとどめているが、その近隣には同市馬司(まつかさ)町があり、十三世紀の馬司庄は額田部連の氏寺であった額安寺の所領となっていた。(28)そして『延喜式』兵部省式に筑前国葉早良郡の額田駅がみえ、『本朝世紀』天慶四年(九四一)九月条に「備前国馳駅使健児(こんでい)額田弘則」がみえることも、額田部が馬と縁が深かったことを推測させる。
 思うに、小糸川中流の周准郡額田郷の額田部も馬を飼育していて、大和政権はその五キロメ−トルほど下流の湯座郷との間に馬を使った交通路を設定していのだろう。さらに額田郷から先も騎馬の通う道路は小糸川沿いに上流へ延びていて、清澄山系を超えた太平洋側の安房郡長狭郡にまで通じていた(第2図参照)。長狭国造領の長狭郡は、壬生・日置・置津・田原・酒井・伴部・賀茂・丈部郷の八郷よりなるが、そのうち傍点を付した五郷は大和政権関係の郷名である。大和政権ゆかりの郷名がすこぶる多いということは、大和政権の力が広く長狭郡に浸透したことを告げる。その浸透のル−トは三つあり、、東京湾に注ぐ小糸川、小櫃川、養老川沿いにそれぞれ進んで清澄山系を越えて長狭郡へ到達するル−トがそれである。この房総屈指の三河川は、いずれも上総・安房国境の清澄山系より流れ出ているので、それを伝わって南下してゆけば、おのずと長狭郡へ至ることができた。大和政権がこの三つのル−トをとって次々と長狭へ進出してきたために、大和政権の影響を強くこうむる結果になったのであろう。つまり湯坐郷は嶋穴郷と同様に、走水−小糸川−長狭郡の水陸交通路と国造領連結路の交差する十字路的な位置を占めていたのである。
 周淮郡湯坐郷から北上した道は、馬来田国造領に入って、東京湾に注ぐ小櫃川下流右岸の望陀飫富郷(袖ヶ浦市飯富、木更津市牛袋野、十日市場、有吉、大寺一帯)へ通じていた(第2図参照)。というのは飫富郷の式内飫富神社(袖ヶ浦市飯富に鎮座)は太氏ゆかりの神社であり、飫富郷は大和政権が小櫃川の下流右岸に設けた房総経路の一拠点だったからである。次項の第4図「飯富地区小字図」を見ると飫富神社の鎮座する台地端しのま下に小字フノドがあり、この付近は藤潴駅に比定されている。また、飫富郷のなかを東海道が縦走しており(▲で示した小字界、大字界)、近傍に馬来田という小字が存在するのは興味深い。ここで一段と憶測をたくましくすれば、東海道の道筋の近くに馬来田という地名があるのは、大化以前にも飫富郷のなかを国造領連結路が通っていたことを示しているのではあるまいか。大和政権が馬来田国造に命じて道路を作らせ、それを管理させていた痕跡のようにも思われる。そうだとすると、飫富郷を通過する東海道は、かっての国造領連結路をほぼ踏襲したものといえるであろう。 飫富神社は今では飽富(あきとみ)神社と呼ばれ、倉稲魂命(うかのみたま)、大己貴命(おおなむち)などを祭神としているものの、もとは太氏の奉斎した大物主命が祭られていたはずである。『古事記』神武天皇段によると、大和の三輪山の大物主命の娘伊須気余理比売(いすけよりひめ)と神武天皇との間に生まれた神八井耳命(かんやいみみ)が、意富(おほ)(太)臣や伊予の伊余国造、肥後の火君・阿蘇君、豊後の大分君、筑紫三宅連、信濃の科野国造、安房の長狭国造、常陸の仲国造、陸奥石城国造らの祖となったと伝え、太氏は神八井耳命の外祖大物主神の神裔と称しているからである。また、この神は大和の三輪君、鴨君の祖神である。大物主神は大和政権の地方平定や朝鮮経路の軍神、守護神として崇拝されていたので、大和政権の地方進出とともにこの神が各地に祭られるようになったのである。四国・九州や東国の諸豪族が太氏と同じく大物主神の後裔とされているのは、大和政権がこの神を奉じて四方へ勢力を伸張していった結果である。


市原市文化財研究会紀要第一輯
上総国嶋穴駅周辺の古代水陸交通路
市原市文化財研究会 著作 前之園 亮一 共立女子短期大学教授
 
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