【古代上総の道】
【市原の信仰】

西青柳地区の三山信仰

西青柳に継承される仏式の三山信仰

 王政復古からの新体制となった明治政府は、明治元年(1868)「神仏分離令」を発し、明治五年、太政官名で「修験宗」は廃止されることになった。従って出羽三山各寺院は神道に転換を余儀なくされた。同時に地方の三山行人も「八日講」等の行事には、祓詞・神詞・賀詞を唱えるようになった。しかし、西青柳では江戸時代以来の伝統的な仏式を継承している。八日講では必ず「懺悔文」「御梵天由来」「御山縁起」「湯殿山御祝詞」「心経奉納譛文」「仏説魔訶般若波羅蜜多心経」などの経文を唱える。
 毎年五月の「八日講」では、海で亡くなった人の供養をする「浜供養」を、海面埋立て以前の海岸に行き、大梵天を立て「般若心経」を唱え、拝み終わると腰に巻いていた「五垂れの注連縄飾り」を浜に投げ死者の霊を弔う行事を行った。海浜部集落には、海で命を失った人を弔う浜供養は行われていたが、どの集落に於いても古来より行われて来た伝統的な供養の儀式を伝えていたが、西青柳行人による浜供養は他に例のない独特のものである。〈写真上 青柳の三山行人による浜供養 於旧青柳海岸〉

 また、当地区の行人の作る梵天(以下、梵天袈裟とする)は紐の結び方が独特で、不入斗(いりやまず)の行人の作る梵天と共に貴重な文化遺産である。因みに、梵天の製法は、地域毎に梵天袈裟の紐の組み方を異にし、管見では八幡宿・五所等に独特な紐の組み方が継承されている。この内不入斗の梵天は豪華で、永年佐倉の国立歴史博物館に陳列されている。
梵天(西青柳地区) 右は梵天の頭部(組み紐は人形を象る)
西青柳の梵天袈裟は人形(ヒトガタ)を象る紐の組み方で、上部は目・耳・口の頭部を表現し、中部は胴部、下部は下肢を表現すると云う。一見無造作に見えるが、見ただけでは真似は出来ない。この梵天は春の八日講の折に、集落の入口の角々に立てられる。これは集落内に悪い病気等が入らないようにとの趣意である。では、梵天とはいかなるものか、やや煩雑であるが西青柳の行人が「八日講」の行事の際に唱える経文の一つである「御梵天由来」を紹介する。
 「夫れ御梵天の由来をくわしく尋ね奉るに金剛界胎蔵界両部の流れをくみ頂上には三十六文天を表し三百六十しだれの御注連を切り事に阿罵呼の三字を表し三尊ぐそく御幣立て五大尊明王懇情し奉る御礼には三山の梵字を鎮め中(チュウ)には白蓮華の手掛けを掘り白帯しげんの糸筋を添え地は小金の床を飾り石付きを名付けおのおの足を突く時は六時中に曇りなく日々に懺悔の文(モン)を唱え梵天幣帛を捧奉る 則 湯殿山大日如来と同体なり諸人是拝する輩は罪消を減じ給ては七難を逃れ家内静まる時は七福かいらい神の御前にて自然幣帛とごうす佛の御前三悪道」の罪を逃れ誠に帝釈天の加護なり」
 市内どの地域においても、集落の入口や三山塚、または、行人が亡くなったときには野辺送りと同時に墓に梵天を立てるが、三山信仰が神道化した今日「御梵天由来」の説く梵天の由来や本義を意識することはなく形骸化していると云えよう。西青柳では梵天作りの継承者がなく困却していると聞くが、北青柳では小倉澄夫氏を中心に三山信仰と、西青柳の梵天袈裟の組み方を継承する努力をしている。

市原地方史研究連絡協議会・研究紀要
青柳地区に於ける民間信仰に関する若干の考察
著作 谷嶋一馬
 
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