【古代上総の道】

上総国嶋穴駅周辺の古代水陸交通路

第4図 飯富地区小字図

四 国造領連結路A

 大物主神が望陀郡飫富郷の飫富神社に祭られた理由は、ほかにもある。それは、馬来田国造の領域であった望陀布と呼ばれた良質の麻布の産地であり、大物主神も麻布・麻糸とかかわりの深い神であったからである。『令義解りょうのぎげ』賦役令によると、望陀布は一般の布より四寸ほど幅広で、調として納める一般の布は正丁二人で一端を貢上するのにくらべ、望陀布は正丁四人で一端を貢上する規定であった。つまり、望陀布は一般の布よりも倍近い価値を認められていた高級な布であり、天皇即位の祭儀である踐祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)にも望陀布が用いられたことが『延喜式』神祗式より知られる。
 一方、大物主神が麻糸とつながりの深い存在であつたこしは、『古事記』崇神天皇段の伝承に示されている。活玉依毘売(いくたまよりひめ)のもとに夜毎に通ってくる男の裾に刺した。「「閉蘇紡麻」(細長く球状に巻いた麻糸)をたどって行ったら、美和(三輪)山の三輪神社まで続いていたので男の正体は大物主神だということがわかり、麻糸の球が「三勾(みわ)」残ったので、そこを美和と呼ぶようになったという。この三輪山説話をたんに神婚説話として解釈するだけでは、片手落ちであろう。この説話の真意は、裾に刺した麻糸のために三輪山の大物主神が正体を現したという点にある。死者の霊魂(祖霊)それを本質とする大物主神は麻糸や麻布によって示現し、麻糸・麻布はそれらを招き寄せる呪力をもつと信じられた呪具でもあった。(32)大物主神が、その名も高い望陀布の産地である望陀郡の飫富神社に祭られるようになった理由の一班はここにあると思われる。
 小櫃川下流右岸の飫富郷の飫富神社に大物主神が祭られていたということは、この地が房総支配の重要拠点であったことを物語っている。小櫃川は上総と安房の国境をなす清澄山系に源流を発する房総最長の河川であるので、大和政権はこの川を房総支配の動脈として重視し、内陸部に位置する中流の畔蒜(あびる)郡三衆(みもろ)郷(木更津市下郡付近か、下郡は畔蒜郡衙所在地か)にも大物主神を祭った(第2図参照)。三輪山は『古事記』上巻に「三諸の山」とも呼ばれ、大物主神は「三諸の山の上にます神」とも称されているから、三衆郷は大物主神ゆかりの土地とみてよい。三衆郷までは溯航可能であったのでろう。東京湾と小櫃川下流の飫富郷と中流の三衆郷との間に大和政権の息のかかった水上交通路が存在していたのだろう。
 三衆郷から先は小櫃川沿いに進み、その源流の清澄山系を越えて太平洋に面する安房国長狭郡へ到達し、そこにも大物主神を祭った。それゆえに長狭国造は、大物主神の外孫神八井命の後裔と称して太氏と同祖の系譜につらなるようになったのである。また、長狭郡に賀茂郷(太平洋に注ぐ加茂川河口・下流の鴨川市中心部一帯)があるのも、大物主神の神裔と称する大和の葛城の鴨君とのつながりに(33)よるものであり、大物主神は賀茂郷に祭られたのであろう。それに畦蒜郡の国史現在社田原神社(小櫃川中流右岸の君津市俵田に鎮座する白山神社か)と同名の田原郷(加茂川中流の鴨川市田原一帯)が長狭郡に存在するのも畦蒜郡と長狭郡とのつながりを物語っている。
 このようにして、大和政権は、東京湾側の飫富郷と太平洋側の安房国長狭郡と連結する交通路を開発したのであり、飫富郷はこのル−トの出発点であった。長狭国造は、このル−トを通って上京したのであろう。つまり小櫃川下流右岸に位置する飫富郷も、安房国長狭郡にまでつながる陸上交通路・小櫃川の水上交通路・と房総西海岸部の国造領連結路とが交差する十字路にあたる水陸交通の要衝であった。
 飫富郷から先は、上海上国造領の市原市椎津へ至ったと思う。椎津は上海上国造領の西南端に位置し、東京湾を眼下に見おろすその台地上の小字外郭には戦国時代の椎津城の遺構の上に外郭古墳(前方後円墳、全長八十五メ−トル、五世紀)があり、そのま下を江戸時代の房総街道が通っていた(第八図参照)外郭古墳は、上海上国造の前身の豪族がその領域の西南の関門を扼すべく築いた古墳ではないかと推測されるので、すでに五世紀の頃から馬来田国造領の飫富郷から上海上国造領の椎津を結ぶ東京湾沿いの交通路があったと思われる。椎津から先は市原市姉崎の妙経寺古墳(前方後円墳、全長五十五メ−トル、六世紀、消滅)、二子塚古墳(前方後円墳、全長一一〇メ−トル、六世紀)のかたわらを過ぎて嶋穴郷へ至っていたらしい。上海上国造とその前身の豪族の墳墓と目される姉崎古墳群のなかでも妙経寺古墳と二子塚古墳は海岸平野のなかに孤立的に築造されており、いずれもま近くを房総往還が通過しているので、この二つの古墳も上海上国造が交通路を抑える目的で築いた可能性が大である。(第9図参照)。
 姉崎古墳群のただ中に鎮座する式内姉崎神社は、上海上国造ゆかりの神社であろう。この神社と嶋穴神社は、相並んで『日本三代実録』元慶元年(877)五月十七日条に初見し、ともに正五位下に叙されているので、一対の親密な関係にあったふしが窺われ、現在も嶋穴神社の祭神は志那都比古命、姉崎神社のそれは志那斗弁命とされており、両社の祭神は夫婦の関係になっている。それに嶋穴郷は海上郡に所属していたから、嶋穴郷と海上潟はもともと上海上国造の支配する所であり、嶋穴神社も上海上国造とかかわりのある神社と推測される。また、海上潟は上海上国造にとても重要な港であったので、上海上国造領を通過する国造領域交通路が、外郭古墳、妙経寺古墳、二子塚古墳のかたわらを過ぎて、そのまままっすぐ海上潟を擁する嶋穴郷に通じていても不思議はない。嶋穴郷も東京湾と海上潟・古養老川を結ぶ水上交通路や嶋穴郷−車持郷−伊甚屯倉間の陸上交通路と、房総の西岸部を南北に走る国造連結路とが交差する十字路にあたっていたのである。
 本章は憶測と憶断のくり返しに終始したが、大化以前にも上総の西岸部の諸国造領を連結する陸上交通路が存在していたらしい。しかもその経路は、東京湾に注ぐ上総の主要河川の水上交通路や、主要河川に沿って開設された東京湾側と上総・安房の太平洋側とを結ぶ陸上交通路と有機的に連結されていたようである。そのような二つの交通路が交差する場所は、大和政権の拠点ともなっていた。上総の西岸部に関する限り、国造領連結は国造が各々思いのままに設定したものではなく、房総経路の拠点となる要所を連繋しつつ、ある程度計画的に作られていたらしい。つまり大和政権の房総経営の目的を反映した道路であったと考えられるのである。そうだとすれば、上総西岸部に限定してのことだが、中央集権の充実を目的とする駅や駅路の設定においても、大和政権が開いた国造領連結路やその拠点が、のちに駅路や駅に踏襲された可能性も小さくないであろうと推測されるのである。なを、周淮国造領と阿波国造領間、上海上・菊麻・千葉国造領間の交通路については、時間と紙数の関係で割愛した。


市原市文化財研究会紀要第一輯
上総国嶋穴駅周辺の古代水陸交通路
市原市文化財研究会 著作 前之園 亮一 共立女子短期大学教授
 
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