【古代上総の道】

古代上総国の嶋穴駅と官道W

第5図 駅路(古東海道)推定図(点線は推定古代道)

(三)嶋穴郷に於ける条里地割

 嶋穴の郷域に於いては、土師器の散布地等は確認されず、駅家跡の究明は困難であるがその手掛かりは、条里地割又は、古代官衙としての方格地割等の確認である。その痕跡を求めて現地踏査及び、地図上での検索を重ねた結果七ッ町の西部及び北部の二地区に、条里と推定される地割りが確認された。
 当地の地形は、海抜一、三〇〜二、五〇メ−トルのため養老川の乱流を、平野部一面にうける。そのため同河川の氾濫や、八・九世紀の海進作用のため、(6)条理面は埋没した可能性が高いことと、昭和中期に耕地整理が行われたことにより、古代以来の水田の畦畔は大半が消滅した。幸いに条理に基ずく阡陌推定線から、A・Bの条理区画を確認することが出来た。

A条理地区(島野耕地)

 A条理区は、東は七っ町集落、西は旧房州街道(現地方道千葉−鴨川線)南は三十六石、北は大六天を境界とする水田地帯である。文献資料や肝要な条理呼称、地名はなく、数詞地名として僅かに一ヶ所「五反目」があるのみということより、条理地割復元は困難であるが、市道石棒杭〜矢島野線の計測を試みたところ、この道路の屈曲部は一町(一〇八米)間隔である事を発見した。これは明らかに阡陌地割の存在を示すものであり、この道を基準として一町方格のメッシュを組んだところ、この区画を囲む各道路は条理区画と整合することが確認された。養老川左岸も右岸同様国衙領の地として条理地割が施工されたものと想定される。この区画の阡陌方位はN−6。−Wを示す。
 A条理区に於いて注目したいのは、第一条理区のA〜Bの屈曲部(石棒杭(いしぼんぎ)〜谷島野線)の各曲部は一町間隔(一〇八米)を測り、本道が条理に基いて計画的に作られた阡陌線であり、A〜Bの屈曲部(字大六天1671)は九〇度の角度で屈曲する。この屈曲部について従来単に曲がった道としか捉えていなかっが、検討した結果、この屈曲はA条理区の条理地割の基線を引く為の屈曲であることが分かった。即ちこの屈曲部の底辺に線を引いて、直三角形を作り、この底辺の点Pから嶋穴神社中心部に当たる点Xを結ぶ線は、A条理区の中心線である事が確認された。以上の観点から、この屈曲部は条理地割施工に当たり、幾何図法を応用した測量基点と推定される。
 又、右の中心線は、嶋穴神社地の中心線、及び一の鳥居までの参道と一致し、同社社地中央部のP点とX点との距離は六四八米(六町=一里)である。このことは嶋穴神社の社地は、条理地割を基準として造成されたものと考えられる。
 ちなみに嶋穴神社が、旧地「元嶋穴」より現在地に移転したのは、天長二年(八二五)であり、(7)この移転の年代は、A条理区の条理地割の施工の年代を示唆する。又、当該期は海進のあった時代であり、条理水田は冠水し、埋没した可能性も考えられる。
 次にA条理区A・C線(石棒杭〜三十六石)に沿う道路(現千葉〜鴨川線)は、古養老川(現前川)の自然堤防上に出来た道(現千葉〜鴨川線)である。本道の西側は青柳地区で、中世青柳郷であり、このA〜C線は、嶋穴・青柳の里界線といえる。この界線の北側は俗称「石棒杭(いしぼんぎ)」という独特な地名であるが、この地名の由来については伝承もなく明らかでない。今日現存しないが、以前江戸末期頃の示道標(一辺三〇糎、地上高一・二〇前後)があったことから「石棒杭」と称するようになったと云う。しかし示道標を「イシボンギ」と呼称することは、寡聞にして聞かない。考えられることは事は中世の?示杭か、或いは古く遡って立石状の石柱を指すかのいづれかとおもわれる。
 石棒杭は二町方格の中に収まる程の少集落であるが、集落の北端に、大六天神社(現道祖神社)と「デェデェポの足跡」という巨人伝説を伝える池がある。大六天神社とは約三〇米程の至近距離にあり、入ると祟りがあるという禁足地である。大六天の祭神は「面足尊」「惶根尊」の二神で共に天地創造の神である点、条理区画と何らかの関係があるのではないかと思われる。
 A条理区、A〜D線(谷島野〜七ツ町)は島野耕地の東側の阡陌線である。このル−トは特に屈折が激しい。これは養老川の氾濫により流下する水流により、強い作用を受ける事により、地盤の弱い部分が抉られる結果、不自然な屈折した道となる。当地の南北方向の道は、一様に同じパタ−ンに屈折する状況を認めることが出来る。この道路も部分的であるが、条理坪界線と一致する。
 以上条理区画と推定される島野耕地の地割について検討を試みた。一町方格の区画線と、阡陌推定線と整合する事は、条理区画の存在を示すものである。

B条理区

 七ツ町町内をを南北に通ずる中央道と平行する。集落の西側を南北に走る市道の間隔は、一町(一〇八米)である。この二本の道を基準として、七ツ町・飯沼間に、一町方格のメッシュを組むと、両地区内の市道、及び両町間の中間の道路が、このメッシュと部分的であるが整合する。これは両町間に条理地割の存在することを示すものである。この飯沼地区は和名抄に記載される「稲庭郷」と推定される土地である。この地域も条理呼称地名、数詞地名及び文献資料は一切存在しないが、国衙支配地として条理地割が行われた可能性は充分考えられる。
 嶋穴郷と稲庭郷の境界は、飯沼境・林・谷を結ぶ線である。飯沼境から谷に向かって流れる用水路が、現在の谷島野と飯沼の境界にであるが、かっての郷界である。
 B条理区の阡陌方位はN−24。−Eを指向する。A条理区とは三〇度の開きがあり、条理地割の施工期を異にすることを示す。
 B条理区画は、G・H線を境に、地理的景観が一変する。即ちG・Hライン北南は古養老川の自然堤防上に蜜にする分布する島畑地帯であり、北側は妖肥沃な水田地帯が広がる。この区画内の水田も大半は区画整理されて、古い畦畔は消滅したが、駅起田と想定される上茶免・下茶免及びその周辺には、昔ながらの畦畔は遺存するが、条理地割の痕跡は認め難い。
 以上B条理区を概観すると、七ツ町地区と飯沼地区内の市道は、互いに方向性と間隔を等しくし、両区を結ぶ市道塚原・飯沼(F〜H)線は部分的であるが整合することにより、七ツ町〜飯沼(嶋穴〜稲庭)両区に、条理地割が施工されたものと推定される。
 又、A・B条理推定区側から、嶋穴郷の郷域は七ツ町と金ヶ原の二つの集落である事が分かる。現在の島野区は七ツ町、谷島野、塚原、金ヶ原、の四区に依って構成されるが、谷島野、塚原の二区は近世に至って合併された集落であり、そして古来より嶋穴郷の中心集落はつい最近まで「シマナ」又は「ナカンシマ」と呼ばれていた現七ツ町である。

市原市文化財研究会紀要第一輯
古代上総国の嶋穴駅と官道
市原市文化財研究会 著作 谷嶋一馬
 
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