【古代上総の道】

古代上総国の嶋穴駅と官道X

第6図 推定嶋穴駅跡・駅起田位置図

(四)嶋穴駅とその関連遺跡

一、駅家跡

 古くから「シマナ」と呼ばれた七ツ町地区を中心に、嶋穴駅と特定可能な地理的条件の地を、幾年に亘って探索を続けたのであるが、律令期の遺跡の確認が出来ず、一時調査を断念したが、市原市で発行している二五〇〇分ノ一の地形図で、七ツ町地区内の道路を計測すると、この道路が一町方格の区画(A・B・C・D)が確認された。又同町の集落の外郭線(イ・ロ・ハ・ニ)は、若干均整に欠けるが、二町方格の区画を認める事が出来る。この区画の南半部は現集落の七ツ町であり、北半部は水田であるが、「後里」という地名から推して、居住地ではなかったかと思われる。字休所の近くに「古屋敷」の地名がある。屋敷跡はなく水田地帯の一部で、現状では居住地であったとは到底考えられないが、古地理から検討すると、現水田面は古養老川の自然堤防の一部であり、居住地として利用された可能性も考えられる。
 この区画内に於いて、遺跡と認定される資料は一切得られなかったが、現養老川左岸地帯に於いて、方格地割に依り区画された集落は他になく、七ツ町地区だけであり、この観点から七ツ町が駅家跡と推定される。

二、駅起田

 七ツ町地区の東及び北部に、「免」の付く地名の水田が並ぶ、この土地は国から田祖を免ぜられた不輪租田と思われる。
駅は兵部省に属する国家機関であるが、その維持、管理は駅起田から収穫される駅起稲によって運営された。
養老田令駅田条に  「凡駅田。皆隋近給。大路四町。中路三町。古路二町。」と定められた。
 嶋穴駅には三町(宝亀二年以降は二町)の駅起田があり、その駅起稲によって維持・管理された。その駅起田と想定される水田としては、「上茶免」「下茶免」「天神免」「関免」の四枚の水田を挙げる事が出来る。又、これ等の水田が駅家跡の近傍にあることは、駅田令に定める「隋近給」の田であることを示すものである。且つ又この水田の存在は当地区が嶋穴駅であることを裏付けるものである。

三、駅路(古東海道)

 現在は廃れて知る人も居なくなったが、七月廿日は、姉崎神社と嶋穴神社の祭礼日であった。当日は姉崎神社の神輿は嶋穴神社へ、嶋穴神社の神輿は姉崎神社へと、相互に担ぎ込まれたという。その両社の神輿の渡御する道筋は、鎌倉街道と呼ばれた古道である。現在明らかな道筋は白塚から東に向かって、嶋穴神社の一ノ鳥居前を通り、七ツ町に至る市道である。このル−トは姉崎、嶋穴両神社の神輿の渡御街道であり、両地が古代以来関係の深い土地であることを物語るものである。そしてこの道は鎌倉街道と呼ばれているが、嶋穴駅を経由して、上総国府に至る駅路であり、古東海道と考えられる古道である。
 嶋穴駅から北上して、上総国府への道筋は明確ではないが、野毛(土師集落跡)を経由し、村上から総社を経て、山田橋大塚台、(8)稲荷台G地点(9)等の古代道に連なるル−トが想定される。又嶋穴駅から南下し、藤潴駅方面へのル−トは、須田勉氏は、小熊吉蔵説を継承し、(10)嶋穴駅から東方に向かい、神代、立野を経て、袖ヶ浦市の内陸を五領、三ツ作方面に至る鎌倉街道と推定されたが、(11)このル−トでは三角形の二辺を通る道程となり現実的ではない。
 駅路は特定の拠点間を最短距離で繋ぐように測接され、古代道の最も特徴とするところは、平野部に於ける直線的路線形態にある。(12)この視点から、嶋穴駅から南下する駅路又は古東海道は、市内椎津から袖ヶ浦市蔵波を経て飯富に至る海沿いの台地上を直線的に通る、「鎌倉街道」「東海道みち」を通り、藤潴駅に至るコ−スと考えられる。 次に駅家跡推定地附近の古道としては、谷島野地区の「鎌倉街道」「島野道」がある。
 谷島野の鎌倉街道は、稲庭、嶋穴郷の境界飯沼境から林・廣尾を経て大街道に至るが鎌倉街道と伝えられている。
「島野道」は、地名であるが、道の名称であるが釈然としないが、語尾に道が付くことから、一応道として検討する。「島野道」について、当地では全く伝承はないが、「古河公方足利義氏朱印状」に記載されており、(13)どの道が島野道であるか断定出来ないが、七ツ町から石棒杭を経て、青柳港に至る道筋と考えられる。青柳港は古養老川(現前川)の河口に当たり、上総国府の外港と想定される。この河口に近い青柳字天王新田より文和四年在銘の板碑一基が発見され、この河口が古代よりの港であることを示している。この青柳浦に通ずる道筋は嶋穴神社の神輿の渡御の道であり、この神輿には祭神の代理として青柳浦のウミニナ(俗称ゴ−ネ)を祀ることが古来からの仕来たりであった。宵祭にそのウミニナを採りにこの道を通ることになっている。この道筋も字大衙道を経て鎌倉街道に連なり古代からの道と考えられる。

四、駅戸集落

 嶋穴駅に於ける駅戸集落は、律令期の集落跡が確認されず俄かに断定出来ないが、七ツ町の隣接地である金ヶ原と、嶋穴郷域外であるが、野毛が一応想定される。野毛地区は和泉、鬼高式を主とする土器が多く出土し、養老川氾濫原の中では最も有望な土師集落であり、恐らく八・九世紀の遺構も存在するのではないかと考えられる。この観点に於いて、嶋穴駅の駅戸集落について検討すると、七ツ町の後里、金ヶ原地区、土師集落跡である野毛地区が駅戸集落と推定される。
 次に嶋穴駅の駅戸集落の規模について検討すると、宝亀二年(七七一)までは東山道に属していた武蔵国が東海道に編入された結果、相模から上総、下総を通る東海道は支路となった。その結果、上総路は中路から小路に変更されたことになる。したがって、宝亀二年以前の嶋穴駅は駅馬十疋が配属されており、駅務要員は駅長一名、駅子六〇名前後の構成と推定されるが、小路となった宝亀二年以後は駅馬五疋に対応して、駅子は中路の二分ノ一の駅長以下三〇名の構成と推定される。(註二)
 したがって駅戸集落は最大六〇戸前後の戸数を擁する集落が想定されるが、嶋穴は古養老川の流域では、最も肥沃な農耕地に恵まれた土地であり、生活環境の良い所であることから、六・七世紀には、海上国造の支配地として、同国造により開発され、養老川冲積地帯では、最も早く、集落の形成されたところである。嶋穴が海上国造の支配地であったことは、同国造の尊崇する姉崎神社の祭神と、嶋穴神社の祭神とは、夫婦神であり、両社共古代より特別な関係であったことから、それを窺い知る事が出来る。そして嶋穴には神社に奉仕する神官や、氏子等が居り、その中には駅長等の職務に堪えられる才覚の優れた人物も多数居たと思われる。
 嶋穴駅はこういう環境の中に設置されたことは容易に想定出来るが、六〇戸に及ぶ駅戸集落は、大半が駅家に依って占められる七ツ町地区内に、それだけの戸数を収容出来る余地はないのではないかと思われる。したがって、駅戸集落は前述の通り、金ヶ原か野毛である可能性が高い。
註(二)
 各駅に於ける駅子の数は、左の資料に依り、駅馬一疋に対し、駅子は六人位と類推されている。
(1)「続日本後記」承和五年五月乙丑条 安芸国十一処 駅家別駅子 百廿人
(2)「類聚三代格」斉衡二年正月二八日条 美濃国恵那郡坂本駅 駅子 廿百十五人
(3)「三代実録」貞観六年十二月十日条 駿河国駿河郡 三駅 四百人

(補註)
(1)井関氏によると、縄文海進頂期以降、低位海面期の後、海面は〇、五米内外高位になるまで上昇したといわれる。それがダンケルク海進のU・Vである。ダンケルク海進は、〇期(一、五〇〇〜一、〇〇〇B・C)U期(二五〇〜六〇〇A・D)V期(八〇〇A・Dから以降)養老川の左岸はダンケルク海進の各期には冠水したと考えられる。特に水田地帯はその可能性が強い。
(2)近藤敏氏の白塚地区の遺構確認調査に於いて、一、四〜一、五米の下層より、明治期の遺物が出土したという。このこしは、冲積地帯の遺跡のあり方を検討する上に参考になる。
(3)本稿脱稿後、石原義雄氏より、後里は土取りされて現在は水田となっているが以前は畑であったという。又古墳と推定される塚が一基あったとのことである。字名からも集落であったことが窺えられる。

市原市文化財研究会紀要第一輯
古代上総国の嶋穴駅と官道
市原市文化財研究会 著作 谷嶋一馬
 
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