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天王河原山、発見の経筒について
県下最古の廻国経筒U
文を書写して封入し経納するという事は、釈迦が入滅後五十六億六千万年後に再び世に現れて人々を救うと説かれている。弥勒菩薩が釈迦の教えを伝えると云うことから、それを目的として始められたと考えられている。奈良県吉野郡天川村洞川に紙本経を封入した銅製を埋納したの名文が初現埋経として有名である。県内では香取郡大須賀の谷津経塚より発見された大治四年(1129)経筒である。その他平安時代より中世にかけての所産としては市川市八幡の葛飾八幡宮経塚、千葉市の千葉寺経塚、銚子市等覚寺の経筒等が知られている。この時代の経筒には規則に従って書写した如法経が経筒に納められている。
中世末になると六十六部廻国聖(単に六部とも云う)が現世と来世の幸せを願って全国の霊地に納経して廻るようになった。十六世紀になるといっそう盛んになった。室町時代末までに廻国聖が霊場に納められた数は全国で一〇七例が知られており、千葉県内に於いては五例知られている。
経筒に刻まれた銘文
天王河原山から発見された経筒の大きさは高サは約十四糎、太さ六糎、蓋の厚さは約〇・五糎程の大きさである。材質は胴製で鍍金の痕跡が認められる。蓋の上面に細かな格子文と蔦花文が線刻されている。銘文は
十羅刹女 武州六郷之住呂
奉納大乗妙典 六十六部聖 圓勝
三十番神 大永八年 戊子 二月 日と線刻されている。
この銘文型式は室町時代末期に定型化して、法華経を書写して経筒に封入し廻国聖が全国の霊地・霊場に奉納して廻った。銘文の梵時は釈迦を示し、大乗妙典とは法華経のことである。十羅刹女は、人の精気を奪う鬼女であるが仏の説法により法華経の行者を守る十人の護法神。三十三番神は三十日の間、順に結番して法華経を守護する三十の番神のことである。
廻国経筒は県内で四例確認されており、その中で天王河原山発見の経筒が、六十六部廻国経筒としては県下最古の遺品である。 経筒の発見された天王河原山のあった所は、白塚村の分村で江戸時代では「天王河原村」と呼ばれ青柳とは別村であった。何時頃分村したのか集落の形成は明らかでないが、古養老川曲流部のラグ−ン地帯の微高地に形成された集落であり、仏教上の霊地や勝地ではなかった。従って廻国聖の圓勝が何故この地に経筒を埋納したのか大きな疑問である。考えられることは圓勝が納経を目的とした寺院は房州の誕生時が清澄寺であったと想定されるが、何等かの事情により納経の旅を断念し、青柳村に存在していた中世以来の寺院「成光院」に立寄り、同寺の協力を得て天王河原山に経塚を設け、其處に経筒を埋納したのでではないかと想定される。
参考文献
1、関 秀夫「中世大部の奉納経筒」考古学雑誌 第七四巻 日本考古学協会
2、木村 修「千葉県および房総関係の経塚」千葉文華第三〇号 千葉県文化財保護協会
3、企画展パンフレット「経塚と経筒」千葉県立中央博物館
4、成田山霊老館「考古資料解説目録」昭和三十三年十二月二十五日
市原地方史研究連絡協議会・研究紀要
青柳地区に於ける民間信仰に関する若干の考察
著作 谷嶋一馬
青柳地区に於ける民間信仰に関する若干の考察
著作 谷嶋一馬