【古代上総の道】

古代上総国の嶋穴駅と官道T

嶋穴駅位置図(国土地理院承認)

上総嶋穴駅についての一考察

はじめに

 律令国家の中央国家集権政治の必要から、中央と諸国の国衙を結ぶ連絡機関として、駅馬、伝馬制が行われるようになり、駅が各国に置かれた。上総国では大前、潴沼、島穴、天羽の四ヶ所に置かれ、海上、望陀、周准、天羽に伝馬が置かれた。それぞれ五匹の馬が配置されたことが延喜式に記載されている。
 駅、伝馬の置かれた場所に関しては、最近山陽道の播磨国布勢駅と推定される小犬丸遺跡と野磨駅と推定される兵庫県落地遺跡が発掘され、駅家の構造や規模が確認され、国の主要幹道に沿う大路の駅家の実態が明らかとなったが、全国の中、小路に置かれた駅家については、遺構の確認された例はなく、その実態は明らかでない。
 上総国府に近い嶋穴駅は、馳駅、飛駅を発し(註一)、その機能を充分果した事は、古代史料から窺うことが出来るが、駅家はどのあたりか、その所在地については明らかでない。従来多くの研究者によって検討されてきたが、考古学・歴史地理学等の具体的な調査はなされず、駅間距離や地勢から所在地を推定するか、残存する小字等から所在地を検討するに留まる。その所説として嶋穴駅に関しては、吉田東aの「大日本地名辞書」では、君津市人見付近に推定し、「日本地理志料」、「市原のあゆみ」等では市原市島野と推定する。
 今は故人となられた、平野元三郎氏と筆者は、駅家跡を追求して、嶋穴神社周辺の調査、研究は数年に及んだが同地区は集落内を河川と用水路とが囲繞することから、古代の環濠集落と想定するに留まり、駅家跡と認定するに至らず模索を続けたという経緯がある。等地区に於いて遺物の包含地が見当たらないことは、駅家跡の確認が困難である一因でもある。幸いに七ッ町に一町方格の区画が認められることにより、当地が駅家跡と推定するに至った。
 白塚・七ッ町間の市道は昔から鎌倉街道と呼ばれた古道である事が判明した。恐らく古代からの道であり、嶋穴駅に通ずる駅路と推定される。
以上の所見に依り、七ッ町地区を駅家跡と推定するものである。

註(一)
(1)續日本後紀(巻十八)仁明天皇
承和十五年二月庚子(十日) 上総国馳駅傳。 奏俘囚 丸子廻毛等叛逆之状。 登時勅符二道発遣。 一道賜上総国。 一道賜相模上総下総等五国。 令相共討伐。
(2)續日本後紀(巻十八)仁明天皇
承和十五年二月壬寅(十二日)上総國馳駅 奏斬獲反叛俘因五十七人。
(3)日本三代実録(巻四十三)陽成天皇
元慶七年二月九日丙午。 上総国介従五位下藤原朝臣正範飛駅奏言。 市原郡俘因卅餘人叛亂。 盗‐取官物。 數殺‐略人民。由是発諸郡人兵千人。 令 其追討。 而俘因焼民盧舎。 逃‐入山中。 商量非数千兵者不得征伐者。 勅。 如奏状。 是俘夷群懼罪逃竄者也。 况?餘人偸皃。 何足喪以馳羽檄。 宜停給勅契。 直下官符。 差‐発人夫 早速追捕。
(4)日本三代実録(巻四十三)陽成天皇
元慶七年二月十八日乙卯。従五位下行上総介藤原朝正範飛駅奏言。 討‐平夷虜訖。
(5)日本三代実録(巻四十三)陽成天皇
元慶七年二月廿一日戊午。太政官符上総国司?。 平虜之状奏聞訖。 既成知匏皷一鳴。 風塵永静。 介正範。 大?文室善友。 并差遣將吏等之勇略。 既達旛聴。宜消餘燼。 莫 令重然。 若狼心無悔。 則弥‐滅渠魁。 梟性有悛。 務加撫育。 m飛駅馳傳。 法令自存。 自令事非機急。 勘‐據律令. 発‐遣脚力。 申太政官。 不得專輙馳駅上奏。

補註
(1)馳駅とは律令制における事件の場合、傳使は一日に十駅(一五〇〜一六〇粁)以上を疾駆し、中央に伝達する。飛駅は行程の制限がなく、毎駅人馬をかえて事件等を伝達するという、二つの方式があった。
上総の傳使が馳駅、飛駅をもって俘因の叛乱事件を中央政府に伝達した事が、前記諸書に記されており、国府に近い嶋穴又は大前の駅馬が馳駅、飛駅として利用された事が想定される。
丹裏古文書正倉院文書「大日本古文書」
(2)日奉部人年?三
上総国市原郡大倉駅家戸主奉部安麻呂嫡
(3)延喜式には大倉駅の記載はないが、市原郡に大倉駅という駅が存在した事を示す資料である。養老川右岸の市原郡内に大倉の地名は遣存せず、位置は不明であるが、延喜式成立以前、大前以外の地に同駅が存在したものと考えられる。


市原市文化財研究会紀要第一輯
古代上総国の嶋穴駅と官道
市原市文化財研究会 著作 谷嶋一馬
 
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