【 旅の栞 】

古前川流域の歴史と文化:いちはら探訪

上総における水陸交通の要衝であった

青柳台天王河原の南部一帯は、雑木林が生い茂り陰鬱な感じのする所であるが、県下でも発見例の少ない室町後期の経筒の発見された場所であり、且つ、県下では最古の紀年銘のある出羽三山石塔の所在地として、民間宗教史研究上大変重要な所である。 〔図 古養老川流路返遷図(市原市史別巻より)〕


昭和中頃の天王河原の風景
当地区の字円馬戸には十一基の古墳状の「塚」(青柳塚群)があり、これまでの調査により自然の堆積層であることがわかっている。当地にはこの十一基の塚の他に相当規模の砂丘があって、JR内房線の白塚跨陸橋の盛土に使用された(昭和十四・五年頃)土量からみて、相当規模の堆積層であったことが窺える。如何なる営為によってこれ程の土砂が堆積したのか、土地条件図によって古代以来の前川を復元すると、予想をはるかに超える巨大な河(以下、「古前川」とする。)であったことが分明、この流れによって青柳塚群・砂丘が形成されたものと推定される。

清澄に源を発する養老川は、市原南部の洪積台地を開析しながら比較的安定した流路を保ちながら北流する。沖積地帯に流下してからは幾筋も流路を変える荒れ河でこれまでの研究により九筋の河道(図中・A〜I)が認められ、その内のE河道=古前川が最も古い流路であるとされている。その流路は、洪積台地を北流した流れは沖積地帯に流下すると柳原附近より流れを西に向け、廿五里、町田を流れ鐘が金ヶ原集落を大きく一周し、メアンダ−(曲流)をつくる。更に西に向かって流れるが、白塚附近から急に流路を北に向け青柳浦に注ぐ。天王河原はその曲流部に当たる。以上が古前川の流路である。

土地条件図よりこの川幅を測ってみると、約二百メ−トルの広さの大河であったと推量される。天王河原所在の八雲神社の社伝に「上古此地に一脈の大河あり、水土乾かず産物殖せず、空莫たり・・・」と記す。このあたりの水田地帯は深田で、このラグ−ン化(湿地帯化)した古前川の名残であることは明白である。

大河であったと推定される古前川が洪水を引き起こした場合、その水流は奔流となつて曲流部にあたる天王河原に直進し、上流から押し流された土砂は同地の自然堤防上に堆積することになる。円馬戸の塚群及びその附近の砂丘は、古前川の水流によって堆積した砂丘が塚状に遺存したものである。発掘調査の成果に照らし青柳塚群を重視したい点は、当塚群から検出された遺物から古前川の年代観を窺うことができることである。各塚からの出土遺物を分類すると、縄文時代前期の土器片を始め中世末までの土器や陶器片が検出された。その年代幅は一万年に及ぶことから、古前川はそれと対応した年代、或いはそれ以上の長い間、沖積地帯南部を流れたことが推測できる。

因みに、松ヶ島字横山にもつい最近まで小高い砂丘があつた。この砂丘も廿五里方面より町田字古川−島野字古川を経て松ヶ島に流れた古養老川(I流路)によってできた堆積層で、この流路に近い下川瀬の地下ニメ−トルの所より土師坏が採集されているが、中世以前に古養老川が松ヶ島浦に向かって流れていたことをしめすものである。以上の如く、有史以前より養老川は流路を幾筋も変えているが、その流域はにはそれぞれの歴史や文化があったことを無視してはならない。
なお、海岸平野部は縄文後期より奈良、平安時代にあったと推定されるダンケルク海進の影響を受け低地は冠水したと思われるが、古代以来、上海上(かみうなかみ)の穀倉地帯として栄えた土地である。

特に、古前川を利用した内陸の水上交通について、共立女子短大教授の前之園亮一氏は、嶋穴郷と海部郷は東京湾と古養老川を連携する水上交通路の二代拠点であり、奈良時代の駅制のできる前から伊甚屯倉(いじみのみやけ)の経営を行う上からも重要な動脈であった。その伊甚屯倉からの貢上物は、長柄群車持郷を本拠とする車持部によって、市原市江子田附近まで、陸送され、そこから海部の船に積み替えられて三浦半島又は大和まで海路はるかに送られたものと推察された。

又、奈良時代には国府の外港が大河川である古前川の河口部に設置されたものと推定されるが、古代駅推定地である島野(嶋穴駅・しまなのえき)とともに、青柳は古墳時代末期より奈良、平安時代にかけて上総における水陸交通の要衝であったといえる。現在の前川は、総長約三キロの小河川であるが、大河であった古前川の流域には古代上総の歴史を彩る遺跡が多く埋もれているものと推定する。 ※ 伊甚(いじみ)は現在の夷隅地方。

千葉県市原市「市原を知る会」問い合わせ先 0436-22-3817 千葉県文化財保護協会評議員 谷嶋一馬


▲このページの上へ

Copyright © 2007 道楽悠悠 All Rights Reserved.