【 旅の栞 】

桓武天皇の信任を得た百済王氏

百済王敬福の建立と伝える「百済寺」跡(写真提供 三松みよ子氏(百済王氏末裔)

上総の国司に任じた  百済王敬福

 奈良・平安時代に於いて百済王家一族は、帰化人であるが大和政権のなかで最も光彩を放った一族であり、特に天皇の信任が厚かった。桓武天皇は延歴九年三月の詔に「百済王等者朕之外戚也」と述べられた。特に重視したいのは百済王一族は陸奥・出羽国の国司として東北の守護・鎮撫の重きをなしたことである。この百済王一族で敬福が最も著名で、天平十年(738)陸奥介より陸奥守を歴任した後、天平十八年(746)四月四日上総守に任じ上総国府に着任した。
 その頃国分僧寺・尼寺の建造が着々と進められていたのであるが、大国に相応した壮大な規模であったことにより、当時の建築技術では難工事であった事は想像に難くない。敬福の上総国着任は遅々として進まない国分寺造営の督促が本来の任務であったと推定されている。その根拠は上総国着任の同年九月陸奥守に任命された事である。
 ここで重視したいのは、陸奥国司転出に当たり丈部大麻呂(市原を本貫とする)を随伴して下向したことである。大麻呂との主従関係は明らかではないが、国司と最も関係の深い市原の郡司との係わりが想定されよう。敬福は陸奥守に任じてから三年後の天平廿一年(749)二月、東大寺の廬舎那大仏の完成に際し陸奥国より黄金九百両を貢納した。敬福はこの功積により従三位に叙された。この黄金貢納こそ大麻呂が敬福の期待に答えて、蝦夷との勢力圏の接点である遠田郡(とおだのこおり=現宮城県涌谷町)において黄金採掘の重責を果たしたのである。その後敬福は益々桓武天皇の信任を得、 陰謀渦巻く政界にあっていづれの権力に加担することなく生涯大和政権の枢要な地位を歴任した。市原の古代史上最も重視すべき人物である。

丈部氏を庇護した  百済王明信

 天平廿一年二月東大寺の廬舎那大仏完成の際、陸奥国より黄金が貢納された。日本で初めての黄金採掘という事業の総指揮者として完遂した上総の(市原を本貫とする)丈部大麻呂はその功積により白丁の身分から一躍従五位下の位を授けられ貴族官人の身分となり、それから九年を経た天平勝宝字三年(759)十月斎宮頭(長官)に補任された。斎宮(伊勢国多気郡)とは未婚の皇女が伊勢大神宮におつかいする皇居に準ずる組織を有し、斎宮寮は斎宮に直属する役所である。組織は職員以下被官・雑役等数百人を擁する役所であり、その頂点に立ったのである。
 しかし、その二年後の天平宝字五年(761)正月退任した。その後二十年の間大麻呂の動静は明らかでないが「続紀」延歴二年二月廿三日条に「復丈部大麻呂従五位下」とあり、なんらかの事件に連座して官位を剥奪され位田・位録一切失った白丁の身分となり官界復帰は不可能と思われたが復位し、その一年後「造長岡宮使」に任命されたのである。如何にして官界に復帰出来たか大きな疑問であるが、奈良在住の三松みよ子氏(百済王氏末裔)は、天皇に近侍し奏請・伝宣等を司る尚侍(ないしのかみ)の従三位・百済王明信(敬福の孫娘)が天皇に要請したことにより長岡宮の造営使に任命されたと推断された。
 その根拠は、百済王敬福の建立と伝える「百済寺」(大阪・枚方市)建設に係り、造営使としての重責を果たせる程の技量を修得したことにあると推断された。大麻呂はその後高齢にも拘わらず織部正(長官)隠岐国司を歴任した。上総の一平民であるが百済王氏の厚い庇護を受け貴族官人として輝かしい人生を全うしたのである。
千葉県文化財保護協会評議委員
谷嶋一馬
 
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