【 旅の栞 】

天平産金の功績者 丈部大麻呂@:いちはら探訪

はじめに

今から1200年前、聖武天皇の発願により、国中連公麻呂等により奈良東大寺の金銅製廬舎那仏の鋳造が行われ、天平勝宝四年(七五二)四月に開眼供養が行われた。
この大仏の完成を前にして鍍金用の金が大幅に不足し、八方手を尽くしたが補充出来ず苦慮していたところ、日本には産出されないと思われた黄金が天平二一(七四九)二月陸奥国司百王敬福より、陸奥国小田郡から産出された黄金九〇〇両(一二・六s)が貢進された。鍍金総量四、一八七両一分四銖(約五八・五s)の内約五分ノ一に当たる黄金が貢納された事になる。聖武天皇はいたく感激され、これを慶祝して年号を「天平感宝」と改元され、天平二一年四月朔東大寺大仏殿の前に行幸され、黄金発見を寿ぐ長文の宣命を奏上された。(奈良国立博物館 正倉院展図録より「紅赤布」写真を掲載)

この陸奥国に於ける金採掘者は『続日本紀』に「獲金人上総国丈部大麻呂並従五位下」とある。この金の採掘者である丈部大麻呂については単に上総国人とあるだけだが、市原郡の者と見て大過ないであろう。筆者は大麻呂の事績について先に次の二書「上総国丈部大麻呂についての若干の考察」と「丈部大麻呂に於ける官位剥奪の背景について」(『市原地方史研究』一〇・一二号)を発表したが、大麻呂の出自や官位剥奪と復位について解明出来ず今日に至っていた。
ところが、長年お付き合いしている百済王氏後裔の三松みよ子さんと話題を重ねている間に大麻呂に関する疑問点についてご教示を頂き、百済王敬福の孫娘である明信が大麻呂にとって大きな存在であることが明らかにとなった。本稿はこの点を含め大麻呂の出自や官位剥奪と復位を中心にして、前稿を補完することを目的としたものである。充分に解明出来たわけではないが先覚の皆様の御教示を賜れば幸いである。

一 丈部大麻呂の本貫地と出自について

 丈部大麻呂について『千葉県史資料編古代』では、第一部本書を理解するために『文字資料にみる古代の房総』の一にとり上げている。そこでは上総国衙に仕えた人物であると述べているが、市原で刊行された『市原郡誌』に「天平勝宝元年五月甲辰、金を獲る人上総国人丈部大麻呂に従五位下を授く」と記し、「市原市歴史年表」も同様大麻呂の事績について、全く触れていない。また上総守百済王に関して充分な解説もないが、昭和六十一年「市原市文化財センタ−」によって発掘調査された市原郡香衙関連遺跡「郡本遺跡」より「丈」の文字を線刻文字は土師器の杯底部に書かれており、恐らく「丈部」を示すものであり「丈部」の姓氏を名乗る一族が市原に存在したことを確証する資料であると推断される。
筆者は平成二二年秋奈良国立博物館にておこなわれていた正倉院展を訪れた際、市原郡から輸納された「紅赤布」を見ることが出来た。大きなパネルに市原郡から輸納云々の解説に目を見張った。
その布の墨書銘に

(原か)
「上総国市□□□  丈部□男貲調一端
[村] 専当国小掾正六位上上寸主国島
郡司主帳外従七位下丈部果安    天平勝宝二年十月」
とある。

この紅赤布は天平勝宝四年(七五二)四月九日の大仏開眼会当日に大仏殿の上敷に用いられ「大仏殿上敷紅赤布帳」あり、「東大寺要録」に「九日 太上天皇。太后。 天皇。座東大堂布板殿。 以開眼」とある。
この布の用途を示すものであるかも知れない。(「正倉院展ス目録」(奈良国立博物館))この墨書銘は市原に丈部の存在を示す重要な資料である。
この布は当時最上級と云われた「望陀細貲(サヨミ)が市原郡の「丈部□男」と云う人物より献納されたもので、丈部を名乗ることから見れば郡司主帳丈部果安と同族と模倣される。また「正倉院調庸綾?布」の墨書銘に

上総国市原郡海マ郷戸主刑マ小黒人庸壱段  長二丈八尺
                     広二尺四寸
   専当  国司少目外初位勲七等茨田連継足  天長五年十一月
      郡司タイ大領外従七位等丈部国主

とある。丈部国主は果安から七八年を経た後の人物であり、年数から検討すると果安より二代から三代後の子孫と思われる。国主について注目したいのは郡の最高長官である「大領」の地位にあったことであろう。この正倉院資料から丈部氏は奈良時代中期より平安初期まで譜代の郡司のして市原郡を治めていたことが認められる。ちなみに郡司の任用について、大宝令の選叙令郡司条に「凡そ郡司には性識清廉にして、時の務めに堪えたらむ者を取りて大領、少領と為よ。強く幹く聡敏にして書計に工ならむ者を、主殿、主帳と為よ、其れ大領、小領には外従八位に叙によ」とある。
ここで留意したい事は、律令では郡司大領・小領は従八位下と定められているが、果安は郡司主帳であり、国主は郡司大領で共に従七位に叙せられているが、特別な勲功があって昇叙されたのか明らかではないが、考えられることは次の二点であろう。それは大国である上総の郡司である事と、日本最大級といわれる上総国分寺の造営事業に対して主動的に活躍した功績が考えられる。
上総国分寺については、発掘調査によって、僧寺は総面積一四平方米、金堂、講堂、塔、中門、南大門、回廊、付属建物等の遺構が確認されている。また尼寺は約一二万三千平方米、金堂、尼坊、軒廊、中門、回廊等の遺構が確認され全国でも最大級の規模である。
以上「正倉院調庸綾?布」の墨書銘文の三人の「丈部」により、市原郡に「丈部氏」一族が存在したことが証明される。そして「天平産金」の功労者「丈部大麻呂」は市原郡の郡司「丈部」氏の一族で市原を本貫地とする人物であると断定できる。また市原郡司主帳、丈部果安と丈部大麻呂は同時代に生きた人物と推断される。郡司という要職の家庭に育った大麻呂は、その家庭環境から一応の人格形成は出来ていたと見るべきであろう。
また、郡司の子弟の教育は、大宝令の学令に「凡大学の生には五位以上の子孫、若しくは八位以上の子、情は願はば聡せ。国学の生には郡司の子弟を取りて為せ。大学生は式部補てよ。並十三以上、十六以下にして、聡令ならむ者を取りて為よ」とあり、郡司の子弟には教育を受ける特権があったのである。
大麻呂は郡司一族の子弟として教育を受けて居り、中央の官職を果たすことの出来る資質を充分有して居たと推断される。上総守百済王敬福は着任早々大麻呂の存在に着目し主従関係が結ばれたと考えられる。大麻呂は郡司一族の子弟として教育を受けて居り、中央の官職を果たすことの出来る資質を充分有して居たと推断される。上総守百済王敬福は着任早々大麻呂の存在に着目し主従関係が結ばれたと考えられる。

二 丈部大麻呂従五位以下に叙位される

天平一八年(七四六)四月上総守として上総国府に着任した百済王敬福は、僅か五ヶ月の後に、陸奥守に補任され陸奥国に下向したが、敬福が上総国府(市原市字古甲と推定される)に着任した頃、総社では国分僧寺・尼寺の造営工事が行われていた。武蔵国分寺に次ぐ日本最大級の国分寺であり、造営は遅々として進捗しなかった。敬福はこの工事の監励・監督が目的で任命されたのであろうと推定されている。この工事現場には、在庁官人と共に指揮監督する一人の青年が居た。優れた人格と指揮能力を持った人物である。これが市原郡司の子弟である丈部大麻呂であった。この人物であれば充分信頼出来ると確信した国司敬福は、大麻呂を陸奥国司として同国に赴任に際し従者として下向した。百済王敬福の陸奥国司補任は聖武天皇との密約で、陸奥国にて金の採掘を計画しており、大麻呂を金採掘の責任者に取り立てたのである。
この工事現場には、在庁官人と共に指揮監督する一人の青年が居た。優れた人格と指揮能力を持った人物である。これが市原郡司の子弟である丈部大麻呂であった。この人物であれば充分信頼出来ると確信した国司敬福は、大麻呂を陸奥国司として同国に赴任に際し従者として下向した。百済王敬福の陸奥国司補任は聖武天皇との密約で、陸奥国にて金の採掘を計画しており、大麻呂を金採掘の責任者に取り立てたのである。
大麻呂は敬福の特命を受け、産金地だある小田郡涌谷(現宮城県遠田郡涌谷町)にて金採掘の組織を纏め、蝦夷の勢力と対峙する緊迫した地域であるが、約二ヶ年の年数を一五、〇〇〇人と推定される労力もって(鈴木晋(技術士)の試算)黄金九〇〇両(一二・六s)を採掘した。大仏への塗金総量四、一八七両一分四銖(約五八・五s)の内約五分ノ一相当に当たる金が陸奥国司百済王敬福によって天平二〇年二月東大寺に輸納されたのである。
聖武天皇はいたく感激され、これを慶祝して年号を「天平感宝」と改元された。また、天平二一年四月朔、東大寺大仏の前に行幸され黄金発見を寿ぐ長文の宣明(詔勅)を奏上された。この黄金貢納により百済王敬福は従三位に叙せられた外に多くの関係者や官人が叙位昇叙の恩典に浴した。丈部大麻呂は最大の功労者として従五位下を叙位された。白丁の身分である上総の一青年が、黄金採掘の功により一躍貴族の身分となったのである。
また、陸奥守百済王敬福は宮内卿に補任された。宮内卿の職掌は、帝室の御用度を掌る役職であるが、時には天皇の側近くにあって奏宣や、天皇の要望に応える等が考えられ、比較的親密な関係であったと推断される。特に考えられる事は、宮内卿と云う立場にある間、従者大麻呂に対する処遇について要請されていたと考えられる。一方大麻呂は散位官であり悠々自適の生活を送っていた。
ちなみに従五位下の叙位者の場合は、位田八町、位禄として農民の納める調から?(目の荒い絹)四疋、綿(木綿ではなく真綿か栲綿)四屯、布(麻や栲で織る)二九端、庸布(庸といて納めた布)一八〇常、春秋の季禄として?四疋、綿四屯、布二〇端、鍬二〇口、位分資人(国から付けられる従者)二〇である。
その上官職に就くと職田や功労があると功田や賜田が与えられた。白の狩衣を着て雑用に走り廻っていた無位の白丁大麻呂が一躍にして衣冠束帯の貴族となったのである。散位官でり悠々自適の生活を送っていたであろうが、京・地方官として要職を歴任する百済王敬福との主従関係は従前と変わらず、親密の度が深かったことは想像に難くない。百済王敬福の一族とも交流を重ねていた。後年、大麻呂の為に尽くした敬福の孫娘名信はまだ幼い少女であった。

三 丈部大麻呂斎宮頭となる

ここで政界の状況を見ると、仲麻呂政権側と孝謙上皇との相剋は深まり破局を迎えようとしていた。
孝謙上皇は従前にまして道鏡を重要していることから淳仁天皇との皇権は二分されると云う事態にあった。こうした社会状況下にあって大麻呂が中央官界の官職に就く機会は多くないと想定されたが、天平宝字(七五九)斎宮頭に任じられた。
令外の官である斎宮頭の任命は皇室の所管によるものと想定される。大麻呂の斎宮任命について、百済王敬福は東大寺大仏への黄金貢納の後、聖武天皇に請願していたと思われる。
百済王敬福は地方官も歴任するが、国家的な大事についても必ず京官同様中心となって動いている。例を挙げると、天平字二年七月、出雲守であったが「橘奈良麻呂の変」に於いて、大野東人を始め黄文、大伴古麻呂等を窮間し枕下に死なしめた。孝謙天皇、藤原仲麻呂政権の命によるものである。地方官であっても京官と変わりなく中央の重要な事について関与したのである。 ちなみに敬福の人柄は『続日本紀』称徳天皇 天平神護二年(七六六)六月廿八日条によると「(前略)壬子、刑部卿従三位百済王敬福薨。(中略)放縦不抱。頗好酒色感神聖武皇帝殊加寵遇優厚有土庶来告清貧毎假他物望外与之。由是頻歴外任家无余財(後略)とあり「性格は比較的放縦で物に拘わらず、顔は酒色を好み、土庶が来て清貧を告げれば望外に物を与えた。従がって己の家には余財は無かった」と云う。こうした人柄であったので歴代の天皇の信任は厚かた。大麻呂の斎宮頭に補任された背景には敬福の人柄と人格が有利に働いたのである。
この斎宮頭とは、伊勢神宮の斎王に関する一切を処理する役所の長官で、この役所は、大宝元年(七〇一)斎宮司より寮に昇格した。なお、『続日本紀』天平十八年八月十三日条に「斎宮寮を置く、従五位下路真人野上を長官とす」とある。敬福が上総から陸奥国司に伝出する時と重なる。路真人野上が十三年間の任期を終えて退任するが、この路真人野上の後を継ぐのが丈部大麻呂であり、大麻呂が第二代斎宮寮の長官である斎宮頭に補任されたのである。
大麻呂の補任は淳仁天皇即位直後で、任命は皇権の一端を持つ孝謙であるか、淳仁あるか断定に迷うが、聖武天皇の遣命を受けた孝謙太上皇と推察されるが、即位直後の淳仁帝による任命も否定出来ない。
『続日本紀』天平二年(七五八)八月十九日条に「摂津大夫従三位池田王を遣わして斎王の事を伊勢大神宮に告げしむ。また、左大舎人頭従五位下河内王、散位従八位下中臣朝臣池守、大初位忌部宿祢人成らを遣わして、幣帛を同大神宮に奉らしむ、及、天下の諸国の神社に使いを遣わして幣を奉らしむ、皇子の位に即きたまふを以ての故なり」とあり、皇位が替わる毎に皇女が斎王に卜定されることになっている。この時の斎王は阿部内親王で、大麻呂が斎宮頭としてこの内親王に仕えることになったのである。
斎王とは歴代天皇に代わって伊勢神宮の祭祀を行うため「斎王宮」に派遣された未婚の内親王、または女王のことである。その宮殿の事務を取り扱った役所が斎宮寮で、寮には寮頭(長官)以下一二〇人の官人と六〇〇余名の従業員で構成され、斎王には七〇名以上の女官が仕え壮大華麗な威容を誇っていたと伝えられている。斎王制度廃絶以後その実態はわからないまま長い間「幻の宮」として語り継がれてきたが、「竹の都」ともいわれ三重県多気郡明和町斎宮に所在する(史跡「斎宮宮跡」パンフレット。)
当遺跡は、三重県明和町教育委員会により昭和四五年より七年に亘って調査された。その結果、総面積一六〇ヘクタ−ルと云う広大な面積であることが分かった。確認された遺構は多く、次の遺構が認められた。内院、中院、外院があり、内院には斎王の御座所と神殿・寝殿・御厘殿その他の殿舎がある。中殿は寮庁・寮頭の館などが立ち並び、外殿は一二の司の官舎が並び立っていた。小朝廷と称される程の壮大華麗を誇る宮殿と役所であった。
斎宮寮の一二司とは、主神司・舎人司・蔵部司・膳部司・炊部司・水部司・殿部司・掃部司・宗部司・薬部司・門部司・馬部司である。各司の長官は従八〜六位の官人が補任された。これらの官人は斎宮内の祭祀や斎王の伊勢参官の群行に陪従するなどの業務に従った。斎宮寮は斎宮に関する一切の事を処理する役所である。
大麻呂は、この様な神聖にして、大きな役所の最高長官に任命されたのである。白丁からの成り上がりの人物にこの大役が果たせるだろうか。「大麻呂は目に一丁字のないただの班田農民ではなかった事は、後に都に出て中央官庁の課長クラスに当たる官職に就いていることからも推定できる」と云うのが大凡の見解である。大国である市原郡の郡司の子弟であるとすれば一応の学問を修めており、役人として素養はあったとみるべきであろう。
大宝令の「学令」に「国学の生には郡司の子弟を取りて為よ、並に年十三以上、十六以下にて聡令ならむ者を取りて為よ」とあり、職員令には「其学生。大国五十人。上国四十人」とあって、大学生は五位以上の子孫が許されたが、この令制に従えば、大麻呂は郡司の子弟として或程度の学問を身に就けていたと思われる。敬福は、そうした大麻呂が中央官界の要職に就いてもその職責を充分に果たし得ると確信し、斎宮頭補任について皇室に推挙して居たものと思われる。白丁の身分であったとは云え、想像も及ばない皇室との関係の深い斎宮寮の最高長官である要職に補任されたのである。

四 大麻呂官位を剥奪される

奈良時代に於ける斎宮頭の任期はほぼ二ヶ年である。『続日本紀』には大麻呂の退任について触れていないが、天平宝字五年正月栗田朝臣足人が補任されており、大麻呂は三年の任期をもって斎宮職を退任したことが分かる。その後の大麻呂の動向は『続日本紀』等の正史より名を見出すことはなくなった。散位として悠々自適の生活を送っていたのであろうか。貴族官人としての身分が保証されていたものと思われたのであるが『続日本紀』延歴二年(七八三)二月十五日条に「丈部大麻呂従五位下に復す」とある。これは明らかに官位を失っていた事を物語るものである。如何なる理由により官位を剥奪されたのであろうか。
想定される事は、聖武天皇の歿後世相は不安定となり、多くの官人が斎宮頭を辞任に追われた天平字六年(七六七)以降政界を揺るがした事件を挙げると天平宝字六年孝謙上皇と淳仁天皇の対立、同七年藤原良継の変、同八年藤原仲麻呂の乱、天平神護元年和気王の事件、同淳仁廃帝事件、神護景雲三年道鏡皇位神詫事件、同不破内親王事件、宝亀三年井上内親王事件、延歴元年氷上川継の変などを挙げることが出来る。
従五位以下の貴族官人に栄達した大麻呂であつたが、出自はもとよりさしたる官職の経歴も無い立場である。最も可能性の高い事件としては、「藤原仲麻呂の謀反」であろう。その根拠としては、従三位式部卿であった仲麻呂は東大寺大仏の造営に際し、造仏長官であった国中連公麻呂や佐迫宿祢今毛人、市原王等と共に大仏造営に積極的に尽力した関係にあった。百済王敬福と共に「陸奥産金」の功績者である大麻呂は貴族官人としての立場もあり、政権を担う藤原仲麻呂との交友関係があったものと思われる。
藤原仲麻呂は天平感宝元年(七四九)大納言に昇進し、政権を掌握した。しかし孝謙上皇が道鏡と密接な関係を持ったことから、仲麻呂と結んだ淳仁天皇が孝謙を中傷し、天平字八年孝謙朝に対し謀判の計画を樹て一国あたり六〇〇人の兵を集める動員令を発しようとした。けれども孝謙側に密告されたため東国に向かって敗走し、近江国高島郡三尾崎で破れ妻子や一味三、四〇人も湖畔で処刑された。丈部大麻呂はこの乱には直接加わると云う事はなかったのであるが、孝謙帝から同調者と見られ官位を剥奪されたと推断される。
仲麻呂の乱の後、左の勅を出した。
「(前略)昧爽巳前大群巳下、罪無軽重未発覚、未結正 己結正 皆赦除之但仲麻呂与賞及常赦所不免不在赦限」
とある。すなわち仲麻呂の与黨には罪の軽重に拘わらず容赦しないと云う趣意であり、大麻呂は仲麻呂同調者として、容赦なく処罰の対象となったのである。
孝謙はこの事件の一ヶ月後敬福を外衛大将に補任、和気王、山村王等、で中宮院に居る淳仁天皇を捕え廃帝する任務を命じた。敬福は地方官であっても、中央の重大な事件には天皇の命により馳参じた。また、次の天平字元年の「橘奈良麻呂の変」に際しても出雲守であったが、奈良麻呂、黄文王等を拷掠窮問し、杖下に死なしめた。この時はかっての部下で陸奥守であった佐伯全成を自決に追い込む事態となった。以上の事から敬福は時の権力に追従・加担することなく中道を歩いており、地方官であっても中央政権とは常に連携を取り、事に当たっては主導的な立場で処理した。
以上の如く敬福が京官であったなら、大麻呂の苦境を救い、援護出来たであろうが、天皇の決断に従わざるを得なかったのである。
官位を失い如何に人生の後半を生き抜くか暗澹たる気持ちで過ごす大麻呂であるが、一縷の望みは歴代の天皇に信任の厚い敬福が背後に居る事であろう。いづれ敬福が復位の手を打って呉れるのではないかと期待を寄せていたと思われる。
一方、百済王敬福は称徳朝に於いても重要な地位を歴任した。天平神護元年(七六五)、御後騎兵将軍に補任され、天皇の行幸の際の騎馬隊の総師に任じた。その後、称徳帝の弓削寺行幸に騎馬隊の隊長を務めた。また『続日本紀』天平神護元年十月二十九日条に「戉子、幸弓削寺礼佛奏唐高麗楽於庭刑部卿従三位百済王敬福等奏本国?」とあり、称徳帝が再び弓削寺に参詣した折に陪従し、再び敬福家に立ち寄り、敬福の奏る唐や高麗楽百済の舞等の接待を受けた。このような事から敬福に対する称徳帝の信任は変わりないことを証するが、大麻呂と敬福の関係は充分承知しているが容赦する事は無かった。

五 官位を失った後の大麻呂の動向

官位を失った大麻呂は白丁同然の身分となり、身の振り方に迷って居たことは想像に難くない。どのような生活を送っていたのだろうか。
当然、敬福も大麻呂の処遇を一族の者と話し合い検討していたもの考えられよう。また多くの中央官人の支援もあったとも想像される。
この点について百済王裔直系の三松みよ子氏(奈良在住)とは久しい間お付き合いを頂いて居り、百済王氏について種々御教示を賜った。特に丈部大麻呂に於ける官位を失った後の事について互いに検討重ねて来た。
その結果大麻呂は百済寺の建設に関わっていたとの結論に達した。三松氏によると百済王一族は朝廷から摂津国百済郡の土地を与えられ、其処に移住して住居を構えるようになり、その地域に敬福の創建になる百済寺(現国特別史跡)も建設された。その百済寺を中心に整然とした一町方画(一町=一〇九メ−トル)の地割がなされており、整然とした居住地が建設された。百済寺の南北中軸線か東西へ二町、南辺から八町に及ぶ広さである。
官位を失った後の丈部大麻呂の動向は全く不明であるが、二〇年の後に長岡造営使に任命されることから検討すると、敬福の創設による百済寺の造営と、百済渡来民の都市的な居住地の二〇年に及ぶ建設工事に携わっていた事が想定される。その建設工事には百済系の寺院建築等一流の技術者が多数居たことであろう。大麻呂はその百済工人の指導を得て、宮都建設の技術・知識を修得していたものと思われる。また大麻呂は敬福の一族とも家族同様の交わりがあったものと見られるが、その頃敬福の留守宅を守っていたのは長男の理伯である。その兄弟には上総守・少納言を歴任した玄鏡、飛騨守となつた利善、従五位下の文鏡、信上が居る。いずれも京官又は地方官として重要な官職についている。
大麻呂にとって最も重視したい人物として、理伯の長男の俊哲の女明信の存在がある。大麻呂が交野に来た頃、二・三歳の少女であった。長ずるに従い類い稀な端麗な美しい婦人となった、そうした明信に対して後の桓武帝である山部王は特別な感情を抱いていたのであろう。百済王家の居住地である交野に鷹狩に来る度に道家に立ち寄っていた。天皇家とは外戚であるとまで云われた百済王家であり、気安さもあり名信と逢う目的であったと見たい。ちなみに鷹狩は百済の伝統的な狩猟であった。仁徳天皇時代に百済王族の酒君が伝えたと日本書紀にある。河内交野は百済王家の本拠地であり、後に朝廷の指定した鷹野でもある。
山部王はこの交野の鷹狩を行う度に百済王家を訪ねており、名信に対する思い入れは強く、将来正室に迎えようとする望みを抱いていたと推断される。しかし、名信は南家「藤原朝臣継縄」に嫁いた。この継縄の室となった事は大麻呂にとっては白丁同然の立場から中央官界への復帰の道が開かれたことになる。
まず継縄の経歴を見ると、宝亀二年(七七一)従五位に叙せられ宝亀一一年二月大蔵卿・宮内卿・兵部卿など歴任、同年一一月中納言に昇進し、桓武天皇の即位と共に中務卿兼大納言となった。大納言は天皇に近侍して庶務に参画し、大臣不参の折に代わって政務を行う重職にあった。名信が継縄の室となって間もなく光仁天皇が即位された時多くの官人が昇叙され、明信は正五以下に叙位された。女性として稀であるが、事あるごとに昇叙され晩年は従三位に叙された。百済王敬福の孫娘であり、大納言の室である名信に対して光仁天皇帝も重視していた証左である。(Aへつづく)

千葉文華 第42号 「天平産金の功積者 丈部大麻呂に関する事績再考」
谷島一馬・市原市在住 房総古代道研究会 顧問
平成25年3月 千葉県文化財保護協会より転載
▲このページの上へ

Copyright © 2007 道楽悠悠 All Rights Reserved.