【 旅の栞 】

天平産金の功績者 丈部大麻呂A:いちはら探訪

六 大麻呂の復位とその後の官職

 大麻呂は百済王家の庇護を受けながら、百済寺と同寺を中心とする百済系の人達の居住地(枚方市・禁野木町遺跡)建設に従事していた。明信はそうした大麻呂の本位復位を桓武帝に請願するよう継縄に提言した。大麻呂は仲麻呂の単なる同同調者でしかないが、孝謙女帝の容赦ない制裁により官位を失った事は継縄も充分承知しており、その提言に応じ、大麻呂の復位を桓武帝に請願した。桓武帝は山部王の頃より、鷹狩の都度明信の居る百済王家を訪れて居り、大麻呂が百済寺や百済系住民の居住地の建設に携わって居たことを見聞していたことであろう。
桓武天皇は明信の要望を認め、延歴二年(七八三)二月二三日、大麻呂は本位従五位下に復位した
また、この年の一〇月桓武帝は百済王家一族に昇叙の恩典を与えており、明信は正四位下に、叔父にあたる利善に従四位下に、武鏡に正五位下、玄鏡には従五位下を与えている。
この頃桓武帝は式家の中納言藤原種継と水上交通の不便な平城京を廃都とし、新都に移る計画を密かに決めていた。候補地は、山背国乙訓郡長岡村だった。その期日は、天帝の命令が有徳の人に降りる年と云われる甲子革令の年に当たる延歴三年(七八四)一一月一日である。冬至に当たる日であるのは、とても目出度い事であると昔から云われていた。
その特異日の前の延歴三年六月一〇日「造長岡宮使」一六名を任命した。『続日本紀』延暦三年六月一〇日条によると中納言従三位藤原朝臣種継、左大弁佐伯宿祢今毛人。参議近衛中将正四位上紀朝臣船守。散位従四位下石川朝臣垣守・右中弁従五位上海上真人三狩。兵部大輔従五位上大中臣朝臣諸魚。造東大寺次官従五位下文室真人忍坂麻呂。散位従五位下日下部宿祢雄道。従五位下丈部大麻呂。外従五位下丹比宿祢眞浮等一六名が造営使に任命され、その中に丈部大麻呂が含まれているのに注目したい。大麻呂が一流の土木・建築の技術者であることは桓武帝は充分承知していたと思われるが、やはり、大麻呂官職復帰を期待する明信の要望に応えて「長岡造営宮使」に補任したものと推断される。
造営使のメンバ−の一人である佐伯今毛人は造東大寺長官として長く東大寺に貢献した人物であり、大麻呂と共に新都建設には監督官として重要な役割を果たしたものと思われる。『続日本紀』延歴三年十二月二日の条に「証賜造営有労者爵」とあり、新都造営の長官である藤原種継等と共に丈部大麻呂も従五位下から従五位上に昇叙した。
翌、延歴四年(七八五)一月一五日、大麻呂は織部正に補任された。
大蔵省所管の織部司の長官となったのである。織物・染物を掌る役所で、大宝令によると「正一人・掌らむこと綿・綾・紬・羅織らむこと及び雑の染の事。祐一人・令史一人・挑文師八人・使部六人・直丁一人・染戸」とある。染戸は織部司内の所属とは異なり、管下の各戸で下命わ受けて行う人達で管下に綿綾織一一〇戸、呉服部七戸、広絹織人三五〇戸、緋染七〇戸、藍染三三戸があった。ここでは一般の貴族の衣服や染織を行っていた。大麻呂は長官で中央官界の役職に任ずる事となったのである。
この頃明信は、永年の尚侍(ナイシノカミ)としての功績に対して正四位上に昇叙され、夫の種継は大納言兼太宰師に補任された。
大麻呂は天平九年上総守百済王敬福に随伴して陸奥に下向してから五〇年、かなりの高齢であるが、延歴六年(七八七)五月二八日、隠岐国司に補任された。この高齢で遥かな離島である隠岐の国府(島後の西郷町下田ノ原と推定されている)に赴任したのであろうか。史料によると京師から上りは三五日、下りは一五日の僻島でおる。「隠岐島の歴史地理学的研究」の著者田中豊冶は、直接赴任した国司は少なかったと推定している。その主な理由として、国造として、氏姓社会時代以来、隠岐の支配者であつた総社「玉若酢命神社」の祠官「億岐氏」が本来国司が保持すべき「駅鈴・伝符・倉印」の三点を所持し今日に至っている事に依り、億岐氏が在庁官人として国司の役目を果たしていた。従がって国司は在京し隠岐国には赴任していなかったと推論されている。
ちなみに大宝令によると隠岐国は下国であり、国司の定員は守一人、大掾一、大目史生三名である。この離島の隠岐国に大麻呂が遥任国司の処遇を受けたのは、恐らく桓武天皇に対して明信が要請して補任されたものと思われる。明信は藤原朝臣継種の室であっても祖父敬福と共に、東大寺大仏の完成直前の黄金貢納の功績は百済王家一族の栄誉である。敬福の長男である理伯等も素志は変わるものではないが、特に明信は大麻呂が中央官界に復帰される事を望み桓武帝に要請した。これにより、史上例を見ない白丁の身分から国司にまで昇進した。それには明信の夫継種が右大臣である事もあり、その要請は受け入れられたのである。
大麻呂が延暦六年より隠岐国司しなっているが、延歴一〇年末まで、(『続日本紀』完結)次の隠岐国司は補任されていない。それは大麻呂は遥任国司として四ケ年任期を無事果たしたであろうことを証するものと見たい。
この後の史書には大麻呂の名を見ることは出来ない。京官としての栄光を担い、明信や百済王家一族に見守られ、栄光の生涯を終えたものと考えられる。なお、隠岐国に於ける国司補任は天平宝字六年四月下道黒麻呂、同八年一〇月坂本男足、延歴四年八月土師公足、同六年閏五月丈部大麻呂、仁和二年二月伴有世、以下略、奈良・平安時代まで四名である。(『隠岐・西郷町誌より』)

七 大麻呂を支えた百済王明信

桓武天皇が山部王と称した若い頃より、鷹狩に行った帰りには必ず百済王家を訪ねた。そこにはまだ幼い少女であるが美貌で物優しい明信が居た。百済王敬福の孫娘であり、父は理伯である。
天平宝字の初年、藤原南家の継縄に嫁した宝亀元年(七七〇)従五位下から正五位上に同一一年五月従四位下に昇叙した。夫継種の昇進に伴っての昇叙である。
夫継種は延歴一五年(七九六)七月一六日に七〇歳で薨じた。桓武天皇は継種が亡くなった翌年の『続日本紀』延歴十六年正月二十四日条に「辛亥、能登国羽昨能登二郡没官并井野七十七町。賜尚侍従三位百済王明信」とあり、この条文から明信は桓武朝の後宮に入って「尚侍」に任命されていたことが分かる。桓武帝が山部王時代から歓心を寄せていた女性であり、夫の継種が亡くなった事により尚侍に任じ想いを遂げたことになる。尚侍は内侍司の長で、常に天皇に近侍し、諸司よりの上奏を天皇に取り次ぎ、また天皇からの命を伝える事を掌る役所である。延歴一八年三月明信は正三位に昇叙された。
桓武天皇が若い頃より百済王家を度々訪れたことは、『続日本紀』桓武天皇延歴九年三月廿七日にむ「詔日。百済王等朕之外戚也。今所以擢いち両人加授爵位位也」とみえるように、桓武の母親「新笠」が百済系の子孫であることによるものと思われる。しかしそれ以上に明信は才女で、絶世の美女であったことから、その魅力に惹かれていたのではないだろうか。そうした明信に貴婦人である意味合いである命婦と云う称号が使われている。桓武にことのほか寵愛され、ある時曲水の宴のあった時、桓武は明信との過去を偲ぶような古歌を詠み、その返歌を明信に求めた。
明信は返歌を詠めず桓武が代わって作り詠んだという逸話もある。延歴一三年(七九四)一〇月一五日は国稲を賜り平安新京に家を作ったその居宅で居宅にて弘仁六年(八一五)一〇月一五日七〇歳で薨じた。時に散事従二位に昇叙された。大阪府枚方市の「官女塚」が明信の塚と伝える。
藤原仲まろの乱に連座して官位を失った大麻呂を復位させ、京官として中央官界に復活出来たのは桓武帝に信頼の厚かった明信と夫によるものである。桓武帝との臣下を超えた関係が無かったなら大麻呂の復位は望めなかったであろう。

おわりに

人の運命は幾ら努力しても限界がある。しかし、偶然な出会いから想像も出来ない社会に身を置くことがある。
一白丁の身分しかなかった丈部大麻呂であるが、百済王敬福が上総国司として着任し、大麻呂の存在を知った事により、優れた人格と素質が認められ、陸奥国産金の功労者として正史にその名を残すことになる。中央官界に於いて重要な役職を歴任し、かなりの高齢であるが隠岐国の国司に補任された。白丁の身分から国司となった人物は史上大麻呂以外には居ない。しかし、その累進の課程で敬福の孫娘明信が居なかったら、その白丁の身分で終わり栄光の人生を全うすることはなかった。
大麻呂にとって百済王一族は、彼の運命を切り開いた人達であり、大麻呂の栄光の背景に百済王氏の存在を無視する事は出来ない。 また大麻呂が市原を本貫とする人物であることも主張しておきたい。
本稿を草するに当たり、百済王裔直系の三松みよ子氏に種々助言を頂いた。記して感謝を表する次第である。(了)

参考文献
国史大系『続日本紀』前篇 吉川弘文館 昭和六一年
国史大系『続日本紀』後編 吉川弘文館 昭和六一年
国史大系『日本後紀』吉川弘文館 昭和五三年
杉山二郎『大仏建立』学生社 昭和四三年
倉本一宏『奈良朝の政変劇』吉川弘文館 平成一〇年
日本思想大系『律令』岩波書店 昭和五三年
坂本・平野『日本古代氏族人物事典』吉川弘文館 平成二年
斎宮研究会編『斎宮宮跡発掘』三重県明和町教委 昭和四三年
史跡斎宮跡『整備基本構想』他 明和町教委 平成八年
中山修一『長岡京』京都新聞社 昭和五九年
NHKブックス『長岡京発掘』日本放送出版協会 昭和五四年
田中豊治『隠岐島の歴史地理学的研究』古今書院 昭和五五年
谷島一馬『上総国丈部大麻呂についての若干の考察』
『市原市地方史研究』第一〇号 市原市教育委員会 昭和五五年
谷島一馬『丈部大麻呂に於ける官位剥奪の背景について』
『市原市地方史研究』第一二号 市原市教育委員会 昭和五七年
井上市造『丈部大麻呂の生きていた時代』
『市原市地方史研究』第一〇号 市原市教育委員会 昭和五五年
『千葉県の歴史』資料編古代 千葉県 平成八年
(谷島一馬・市原市在住 房総古代道研究会 顧問)

千葉文華 第42号 「天平産金の功積者 丈部大麻呂に関する事績再考」
谷島一馬・市原市在住 房総古代道研究会 顧問
平成25年3月 千葉県文化財保護協会より転載 
▲このページの上へ

Copyright © 2007 道楽悠悠 All Rights Reserved.