【 旅の栞 】

むかしばなし《第三話》:いちはら探訪


【蓮華台の極楽往生】

おめぇらが、ばぁさんも、ろくに、病まねぇで逝ってよかったなぁ。ながわずれぇでもされたひにゃ容易なもんじゃねぇさ。海潮寺の信心のお陰さ。海潮寺の坊主は、天下に名の通ったもん(者)だっかょ、あすこで信心すりゃ、極楽にゆけるという評判だ。おめぇのばぁさんも信心のけぇ(甲斐)があったからだっぺぇ後生がいいだょ。と、極楽往生こそ老いの果ての願いだ。その願いを叶える寺が今津にあった。
これは江戸時代末の事である。極楽往生できる有難い寺とは、今津の田中の、あまり檀家の持たない貧乏寺であった「海潮寺」という日蓮宗・不授不施派の寺であった。当時法度となっていた不授不施派の僧数人がこの寺に隠れ住み、ひそかに「蓮華往生」の秘儀を行っていたのである。

いつの世でも死に際はポックリ逝きたいのは、老いた者の誰もが願う死に方であろう。その願いを叶えてやろうと蓮華往生を秘密裏にやっていた寺が海潮寺である。その願望を抱く無知な里人達を集め、ひそかに非道の蓮華往生の秘儀を行っていたのである。 その蓮華往生とは、人の背丈程の幅の蓮華台(蓮華の花の台)が祭壇の前に置かれ、極楽往生を願う信者をその連代に寝かせ、数人の僧がお経を読み上げる中、蓮華台の底の穴から、その信者を槍で突き刺して殺すという仕業である。心臓を一突きにつき刺す仕掛けになっていたのだろう。勿論部外者にはその仕掛けは分からないよう仕組んでいた事であろう。

蓮の華の中で極楽往生を遂げたということで、信者の家族は、徳の高い僧侶によって、なんの苦もなく成仏できた事と安堵したに違いない。しかし、この悪僧達の仕業は役人に知るところとなり厳罰に処され、海潮寺は取り壊された。そして、この寺の本尊は近くの能蔵寺に移され、境内にあった石地蔵は田中の別の所に移されたという。今津の「田中地蔵」といえば、昔から「イボトリ地蔵」として有名であったが、今は「ポックリ地蔵」として、地蔵の縁日以外の日でもお参りする人は絶えないという。
                参考文献 野崎 薫著 「今津のあゆみ」 

【二本榎(にほいのき)の天狗】

谷島野の休所は島穴神社の祭礼の際、村中を渡御する神輿が休む所から休所の字名が付されているが、二本の榎があるところから、江戸時代から同地の地名はニホイノキ(二本榎)と呼ばれていた。昔この二本の榎に天狗が住みついていた。此処は青柳の台からイシボンギ(石棒木)を通ってナカンシマ(七つ町)町田・廿五里方面に出る通過点である。
ある時、青柳の漁師がテレン(底の平らな笊)に今日の水揚げの魚を天ビン棒の両端にぶら下げて担ぎ、この村で云うボテ振りに出た。丁度シマン(島野)の「ニホイノキ」を通りすぎょうとすると、榎の上にいた天狗が突然降りてきて、おい、その魚よこせ、よこさねぇと此処通さねぇぞと、どやした。漁師は仕方なく云われるままにテレンの中の魚を渡すと、よしいけ、といって天狗は再び榎に飛び乗ったという。 
話者 佐藤幸三郎氏

【ほじゃら】

ホ−ジャラ ホ−ジャラ むけやま(向山)見せなや ガンが三羽通る さきなガンは物しらず あとなガンも物知らず なかのガンが物知って アアうめやもち米だ うめけりゃ田つくれ 田つくれば足がよごれる 足がよごれれば流れ川えってすすげ すすげば流れる 流れればよしの葉にとっかまれ とっかまれば手切る 手切ればしばれ しばればうむわ うまばったぐれ つたくればいてや いてばやねてろ ねてればのみがく くっぶせ くっぶせばなまぐせや なまぐせば水のめ 水のめば腹いてや 腹いてばきゅすえろ きゅせれば あっあ あっためんきゅだ (椎津)
調査昭和三十年頃 話者 田丸栄二(故人) 古川 明(故人)

※この「ほじゃら」は今は故人となった田丸・古川両氏から伺ったものでかって椎津地区に昔から伝承されていた民族行事のひとつであるが、今は廃れてこれを知る人は少なくなったという。田中喜作氏によると市原南部には広く伝承されていたというが、現在はどうか調査する必要がある。

【やざる ごんごう】

このあたりでは、ヨモギの芽を入れた草餅のことを「やざるごんごう」っていうが、こんな話があっだよ。正月もすんで、産土様の春のまつりがやってきたが、お供えの餅もつけなかった。「困ったもんだなあ、今年は春まつりもできねぇなあ」宮守りも、頭を痛めておったそうだ。
ある晩、宮守りの夢枕に産土様が現れて、「村の者たちもたいそう困っておるようだが、なんとか祭りだけは、やってはくれまいか。ざる八杯のヨモギ草を摘んできて、米五合とつきまぜて、供えてくれれば、ありがたい」というと、すうっと産土様は消えてしまった。 宮守りは、村の人たちと相談して、一軒ひとつかみの餅米を集め、ヨモギの芽を摘んで来て、草餅をついて、お供えしたそうだ。それで、ささやかな春まつりをした。それからは、この村だけは、日照りにあわないもんで、幸せに暮らすことができるようになったそうな。だから、草餅のことを「八笊五合」と呼ぶのだという。めでたし、めでたし。(皆吉)
(本稿の著書 執筆者不明)

【うらまちの庚申】

青柳のうしろば(大田家の屋号)の屋敷の裏に、いつの頃から一基の庚申塔が祀られていたと。その庚申塔にはいつも生花やダンゴ、時には酒などが供えられ村人から大事にされていたと。勿論、大田家でも先祖代々この庚申塔を大事にしてきたと。そんなことから、村の人たちは大田家を「庚申さま」と呼ぶようになったと。
さて、この庚申塔には、昔からこんな言い伝えがあったと。この村では天気さえよけりゃ村中浜に出て貝や魚を採ったと。この土地の者は浜に出ればその日の糧にはことかかない穏やかで平和な里であったと。むかしは今と違って漁に出ると鰯やサンマ等魚貝類が豊富に獲れ、その日水揚げした魚は、近くの村々に「ぼて売り」に出て日銭稼ぎができたと。 しかし、海での仕事は板子一枚は地獄の言葉どうり、昔から海難事故で命を落とす者も少なくないので、富士山等の信仰心の強い所であったと。

この話はいつの頃かはっきりしないが、その日は雲ひとつなく、浜は波静かなベタ凪であつたと。潮の引いた浜では女子供達はアサリやバカを採り沖では男達が総出で漁をしたと。そんなときオカからしきりに誰かが、「うしろばんがよぅ」「うしろばんがよぅ」と、うしろばの親爺さんを呼ぶ声がしたと。うしろばの親爺さんはオカから呼ぶ声は気の所為だと思い漁を続けていたと。だが、漁仲間の者もオカから、うしろばの親爺さんを呼ぶ声を聞いたので、「うしろばんがょ、オカでおめぇを呼んでべぇ、はやくあがれょ、あがってみろょ、」と勧めたと。うしろばの親爺さんもその気になり、オカにあがつたものの人の姿は見えない、訝りながらあちこち捜したが、ひとっこひとりなく、ぼっねんと、していたと。すると雲ひとつなかった西の空が暗くなり天候が急変し海は大荒れに荒れてきたと。漁をしていた仲間は逃げる間もなく波に呑まれてしまったんだと。オカから、うしろばの親爺さん呼んだのは、その家が昔から手厚く祀った庚申サマだったのではないかと、以来この庚申塔に対する村人の信仰を集めるようになったと。またこれより大田家を庚申サマと呼ぶようになったそうだと。 (青柳)

【善竜寺の鬼子母神】

木枯らしの吹く冬の夕暮れ、笊を背負った老僧が一人なかんしま(七っ町)に来た。仏道修行のため全国を巡っているという。破れ気味の阿弥陀笠。色褪せた墨染めの衣など、幾年も諸国を巡っている様子を伺う事が出来る。島穴明神はむかし、上総の国司が年毎に必ずお参りした名社と聞きこの旅僧も島穴明神に詣で、その別当寺である能蔵院に詣でたと云い、厳かに法華経をあげたのち、これから南に下り、君津の延命寺をお参りし安房の寺々を参拝する予定であるという。

里の人達は、老僧がこの夕暮れ時に泊まる宿もなく困るだろうと、名主の沖どん(現酒巻克次家)に相談したところ、それでは困るだろうと沖の家で一夜の宿をかすことにした。この里人の親切に対して僧は笊に背負って来た一体の仏像を沖どんの家に贈り同家を辞した。

旅僧が沖の家に贈った仏像は木彫りの鬼子母神であった。鬼子母神とは、魔界の鬼女、インドの王叉城の夜叉神の娘で五百人の子を生んだが、他人の子を奪って食したので、釈迦は彼女の最愛の末子愛奴を隠しこれを戒めたところ、鬼女は子の愛に目覚め、鬼子母神(訶梨帝母・カニティモ)それから求児・安産・育児など祈願をかなえる仏となった。ところで、旅の老僧が沖の主に贈った鬼子母神は、解脱しょうとする鬼女の姿であり、面相は未だ鬼面に近い凄みのある凄惨な容貌であるが、合掌し、心は仏心を悟りまさに鬼神から仏に変りつつある姿を表現したものである。しかしこの恐ろしい形相では、安産・求児の仏とは云え、畏怖の念が先に立ち、沖家では気持ちが悪いので、金ヶ原の善竜寺に移したという。(金ヶ原)
調査 昭和五十八年十月十六日  話者 小出氏

千葉県市原市「市原を知る会」問い合わせ先 0436-22-3817 谷嶋一馬。 

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