【 旅の栞 】

安房・上総の巨人伝説:いちはら探訪


【デェデェボ−の足跡】

島野の内の谷島野には、昔からデェデェポ−の足跡という古池がありました。五井と姉崎の中間にあたる国道沿いの田の中でしたが、今は耕地整理のため埋められてしまいました。この辺では、島野の第六天様と聞けばすぐ判るお宮の北隣にあったものでした。明治十年に実施した地租改正の時の記録には、池の広さが三十坪でタテ七間二分、ヨコ四間三分の足形をした池でして、官有地となっており、この池には昔からの伝説があって、年寄りによく聞かされたものであります。

昔昔、デェデェポ−という、とてつもない大きい巨人がいました。あるとき西の方からやってきて、あんまりくたびれたので、ここいらで一服と大きな腰をおろしました。そのとたんに地響きを立てて辺が急にざわついてきました。そのうちどうしたはずみか、自分のお尻が急に熱くなって、ビックリしました。どうしたんだろうと、あたりを見まわすとソレは富士山であったからで、デェデェ−ポは二度ビックリしたひとであります。

大昔の富士山は、煙を吐いていたもんですから、急に腰かけられたので、息苦しくって困ってしまいましたそのうちどうしたはずみかブゥ−ッという物凄い音がしたので、何だろうかとしているうちに、膝の下からモクモクと急に煙が達立ちはじめたのでした。よく見ると山のドテッパラから煙が吹き出したもので、デェデェボ−は三度ビックリしました。この時の吹き出し口がだんだん高くなって、宝永山になったという話であります。

そうこうするうちに、デェデェポ−は腹がすいてしようがないから、腰かけたままあたりを見まわしが胸のあたりは浮き雲ばかりでありました。仕方がないから水でも飲もうと下をみたら、青々とした東京湾がありました。まず顔を洗ってと底の方を見たら、何やら白いものが見えたので、手を入れて取り上げてみると大好物の蛤でありました。腹はへるし、時はよしと取っては食い、食っては採るほどに手には貝殻が一杯たまりました。ポイと投げ捨てたところ、遠くへ飛び青柳の海を越えて島野の大六天様や、その近所に散らかって落ちました。その時の貝殻が谷島野のあちこち点々として埋まっております。

さて満腹したデェデェポ−は腰を上げてなおも東の方えと向かいました。そこには海(東京湾)があったので、こんなもの一跨ぎだと甘くみて、ヒョイと一つ跨ぎました。ところが目算がはずれてドブ−ンと青柳の海へ左足を突っ込んでしまいました。これはデェデェポ−が過信して甘く見過ぎたために失敗したものですから物事は慎重に構えなくてはなりません。そこであわててオカに上がった所が島野の大六天様の脇の田だったので底まで右足が埋まってしまいました。近ごろまであったデェデェポ−チ(大太法師池)はこの時の足跡だということです。毎年この池には(泥鰌)の溜まり場になって、これを捕るときっと祟りがあるといわれました。或るとき、強がりの若者がそんなことあるもんかと、ケェ捕りをしたしころ、忽ち病気になつて死んだので、祟りの噂が近所まで広がりました。

デェデェポ−は今度は気をつけて左足を充分に踏み込んだのが武士の大明神山ということです。私は或るときこれを確かめに行ったら山の中にあるとの話でした。デェデェポ−は、ここからまた東の九十九里浜をさして行ったということであります。
とにかくこの時右足のエビ(指)にくッついた土が跨ぐ弾みに跳ね散ってポタリと落ちたひと魂がエビツカ(海老塚)だというお話をする者もございます。海老塚にはまたこんな伝説もあります。戦国時代のことらしいですが、海老十郎左衛門という手傷を受けたいくさ人が、ここを通りかかつたときに深手のために死たので、村人達がこの塚に葬った所から海老塚と呼ぶようになり、今でもこの辺一帯を海老塚と云っているのが村に残された言い伝えであります。塚のあつた場所は第六天様から五井寄りへ二百メ−トル位離れた国道沿いですが、今はその塚は無くなってしまいました。   (落合忠一)

【手永貝塚のデェデェポ−伝説】

昭和四十八年、平野元三郎氏(故人・生前千葉県知事文化財顧問)を中心に筆者等が発掘調査を行った菊間の手永貝塚は、いまから三〜四千年前の縄文遺跡である。殊更この遺跡には伝説等はないが、地名の手永から古い時代にはデェデェポ−伝説があったのではないかと想定されていた。この想定の根拠は、巨人の説話としては最古の文献である常陸風土記に載る大串貝塚にまつわる巨人伝説や、仙台風土記の伊貝郡金山郷大内村の巨人伝説などの例から、貝塚には大概巨人伝説があるので、菊間の手永貝塚にもこの風土記の説話と軌を一にする伝説があったのではないかと思われると推定された。古代から伝承された伝説であるが、何時の頃か人々から忘れ去られてしまったのであろう。

ひとつの仮定であるが、ここには、その昔雲突くような手の長い巨人が、足長の肩に乗って、此処から海まで手を延ばしては貝を採って食い、その貝殻を捨てたところだという伝説があったのではなかろうか。当地の人の話によると、元は手長と書いた。手が長いとは、手癖が悪いと云う意味合いを含むという事から手永と改めるようになったというが、デェデェポ−伝説があった事を示す地名であると推断できるという。「手永貝塚」の発掘調査の折に、この手永の由来について大きな話題になっていたことが思い出される。

【東京湾の水を飲み干しにかかったデェテデェポ−】

むかし、西の方から来たデェデェポ−は富士山に腰をかけながら、東京湾の水を飲み干そうとして呑みにかかったがとても呑みきれず゛ぱんぱんになった腹を抱えながら、海をひと跨ぎに跨いで上総に渡り、武士にたどりついたが、武士に着くや、そこで死んでしまったという。※この伝説は昭和二十年代、武士在住の老人より聞いた話であるが、その伝説の場所は確認しなかった。落合忠一氏(故人)の調査によると、デェデェポ−は武士の山の上であるとのことである。(市内・武士)

【香 炉 塚】

若宮の公園の中に香炉塚という塚がある。古墳だという見解もあるが、これはデェデェボ−が歩きながら足についた土を払いおとしたものだという。また、このデェデェポ−が富士山を崩して東京湾を埋めようとしたという伝説もある。

七日七晩煮炊きして過ごした跡

立野の鎌倉街道の道に沿った所に大きく窪んだ畑がある。そこはデェドェポ−が七日七晩煮炊きして過ごした所だという。

『安房・君津のデェデェボ−伝説』


【東京湾をひと跨ぎに跨いで上総に渡ったデェデェボ−】

富士山に腰を掛けて東京湾で顔をあらったデェデェボ−は、湾口をひと跨ぎにまたいで房州に渡り、さらに、上総の方に越していった。落合忠一氏の調査によると、市原にも富士山に腰をかけ、東京湾の水で顔を洗ったと云う程の大男のデェデェボ−が西の方から上総に来たとという伝説があったという。(安房郡鋸南町江月に伝承)

【富山を枕にした岩井の海で足を洗ったデェデェボ−】

むかし、どこからともなく大太法師といわれる大男がこの土地に来た。富山を枕にして足を岩井海岸まで伸ばすと、村人は大勢でその足を洗ったという。また富山の麓の大凹畑という所は大太法師の足跡で頭を載せた富山は中が窪んで北峰と南峰が出来たという。 (安房郡)

【デェデェボ−が咳払いして出来た浮島】

むかし、デェデェボ−という雲をつくような巨人がいました。富士山に腰を下ろし、内海(東京湾)で顔を洗ったというこの巨人は、或るとき、海をひと跨ぎにして房州にやって来ましたが、すぐに上総の方に行ってしまひました。その時一つ咳払いしたところ、喉から飛び出したのが、勝山の浮き島であると言われています。江月の遠柿にはデェデェボ−の足跡と云われる窪地があります。三畝ほどの広さで、部落の弁天様の田として耕作されていましたが、今は耕作されていません。(安房郡鋸南町に伝承)

【天秤棒で大岩を担いだデェデェボ−】

むかし、西のほうからきたデェデェボ−が、天秤棒を担いで海を渡ろうとしたが、途中でちょっとした弾みに天秤棒から大岩を落としてしまった。それで出来たのが館山湾の沖の島だという。(館山市)

【富士山に土を盛り上げようとしたデ−ジャク坊】

むかし、デ−ジャク坊が駿河の富士山をもっと高くしようと、上総の山奥からモッコで土を運んでいた。すると、アマンジャ(天邪鬼)がこれに邪魔したので、慌てて逃げたのでモッコの土が山のように残った。それが今の富士山である。(君津市大阪)

【姥石と「ばあし=姥石」】

関の旧道のそばに姥石という大きな石がある。その石は石臼の形をしている。この石は、むかし、鹿野山の二倍もあるという大女がいて、字藤木の方から頭の上に(袂という説もある)支えて運んだものであるその石の上にある小さい方の石は袂に入れて持ってきたものといわれる。その二つの石を大女が関豊の川(湊川)の縁に落として行ったとのがこの姥石であるという。その大女は毎日猿に木の実を集めさせては石臼で粉を挽いてダンゴにして食べていた。或るとき水飲み場の主と争ってから一人住まいが侘しくなり、仲間を求めてその地を離れる事にした。関まで来たときその石を落としそのままとなっている。この石の大きさは高さ一・二0メ−トル。周囲八メ−トルもある。

ある日この女が籾をすって、すうも(もみがら)をあおったところ、それが環の方え飛んでゆき、それで出来たのが「すもう塚」だという。いま志組谷の安丸に「ばあし」と呼ぶその足跡が二つあり、いま田團になっている。このほかにも字藤木と環に一ヶ所づつあり、その間は一里づつあるそうだ。関の地名が咳に通じるところからこの姥石に祈ると咳が治るという。(富津市関豊)

『外国の巨人伝説』


【ギリシャ神話 ユリセスとポリフエムス】

ポリフエムスは巨人島キクロ−ブの国で洞窟に住む巨人族で、目は一眼で額の真ん中にらんらんと光っていた。ユリセスは部下二十人を連れ巨人の洞窟の探検に取りかかった。とある洞窟に入るとポリフエムがいて、突然ユリセスの部下二人を掴んで打ち殺し食ってしまった。ユリセスは頃あいをみて持参した酒を飲ませることにした。呑むと一杯で前後不覚になるという酒である。これを体よく呑ませると、ポリエムスはしたたか呑んで酔い潰れてしまった。ユリセフとその部下達は、隠し持っていた木槍の先端を焼いて赤光の火槍として、ポリフエムの目につき刺し敏捷にぐりぐり抉りまわした。やがて洞窟中に独眼のポリエムスの咆吼がとどろき、荒れに荒れた。

『北欧の巨人伝説』


昔、セント・オ−ラフの時代、センエン島に住んでいた巨人センエマンドがユテルナ・エスクという乙女に恋し結婚を申し込んだが、醜い巨人と釣り合わないと拒絶された。センエマンドは激怒して八十哩離れたこの乙女に強弓の矢を放った。これを見ていたトルゲは恋人の一大事と被っていた幅千フィ−トもある帽子を脱いで、飛んで行く矢をめがけて投げつけたら見事に当たり矢は大地に落ちた。暁の太陽の激しい光に当たったセンエマンドと弓と矢とトルゲの帽子は石に変わってしまった。帽子の変身である岩山はセンエン島のかなたの海の上に聳えトルグハッテンと北欧の人々は呼んでいるという。

『国内・旧領土の巨人の伝説』


【天を支えた あまんちゅう(天柱)】

大昔、天地は今日のように間隔が広くなく、天と地が殆ど一つになっていた。それで人間は、天井がつかえて立って歩くことが出来なかったので、蛙のようになって歩かねばならなかった。それでアマンチュウ−(古琉球開闢の神)はこれは不便であると考えて、ある日、堅い岩の所に行き、そこを足場として、両手で天を支えにがら、つったち、ふんばって、天を高く押し上げた。琉球には今でも、諸々に大きな足型の窪みが残っているという。アマンチュ−が天を差し上げた時の足跡だという。(琉球の古代神話)藤澤衛彦著「日本伝説研究」より

【頭が天につかえた コタンノクル】

旧日本の領土であった千島列島は、第二次世界大戦後ロシア領のクリ−ル列島となったが、列島の占守島に、デェデェボ−と同じ巨人伝説があった。むかし、カムチヤッカに近い北千島の占守島にコタンノンクルトという巨人がいた。身長は大きく、まっすぐに立つと頭が天につかえるので、いつも頭を下げて歩いた。海が満潮の時でもコタンノンクルの膝までしかなかった。占守島の各地の岩石にコタンノクルの手や足の跡が残っており、オンネコタン・シャンコタン・エルカママンルル・ラサワ・ケトイ等の島々はコタンノクルのなげた土の塊で出来たものであるという。(千島の占守島の巨人伝説)藤澤衛彦著「日本伝説研究」より
             『安房・上総の巨人伝説』  谷嶋一馬編
               
千葉県市原市「市原を知る会」問い合わせ先 0436-22-3817 谷嶋一馬。 

▲このページの上へ

Copyright © 2007 道楽悠悠 All Rights Reserved.