【 旅の栞 】

孝標女旅立ちの里「島穴」:いちはら探訪

更級日記・孝標女旅立ちの里「島穴」

太古以来乱流を繰り返す養老川の各流路の中で、最も古い旧河道が前川である。この河道は前川に連なるので古前川(筆者命名)と呼称する。
この前川は己に土中に埋没し、大半は姿を消したが、その流域には古代以来中世末までの多くの歴史が秘められている。その内の一つに更級日記の「いまたち」を挙げることができる。

菅公五代目の嫡孫である菅原孝標が、上総国司の任期満ちて京に帰る時、帰京の方角が陰陽道でいうところの方忌みの日に当たるため、一旦その方角と異なる方に仮泊して新たに出直すという禁忌により、帰京の方とは異なる方違いの土地に移る事とした。そこが更級日記にある「いまたち」である。

この「いまたち」が何処であるかが、郷土史家や国文学史の研究テ−マの一つであるが、未だ確定的な見解を出すに至っていない。郷土史家の一部には単なる紀行文であるから、地名等信憑性は薄く、取り上げる価値はないと批判いる者もあるが、更級日記の著者である孝標女(名不祥)は9歳から十三歳まで、人生の内でも最も記憶力旺盛な年代を上総で過ごし、そこを起点として筆を起こしているので、地形や地名に大きな錯誤はないと考える。

「いまたち」に関する先学の所説は、音韻がそれに近いところから馬立、今富を推定地とする説、国司の別館とする説があるが、いづれも地理的にみて肯首できない。

では、幻の里「いまたち」とは何処だろうか。孝標女が五十年経った後も鮮明に印象に残っている「いまたち」の情景を「南はるかに野の方見やらる。ひんがし西は海近くて、いともおもしろし」と記している。孝標一行が仮泊した所は、東西に海の近い所であると特定していることになる。西の海は当然海上潟であるが、その東に広がる地形は、市原の海浜地帯では有り得ないが、この東の海が「いまたち」の位置解明のキ−ポイントである。

それには、自然の営為に依って土中に埋没した地形を赤外線による航空写真か土地条件図により古地形を復元し、それから歴史を考察し読み取る方法以外にない。それらの資料から海上潟の海浜地帯の地形を見ると、前川の旧河道(最古の養老川)が、金ヶ原地区を大きく一周し、Ω状の曲流を形成し(金ヶ原メアンダ−)、現前川に合流する状況が確認できる。

この旧河道を測ると二百メ−トルに及ぶ大河であったことが分かる。その曲流の開口部付近は広大な湖沼の様な様相を呈していたものと想定される。(地図はやや誇大に表現)因みに、その曲流の東側は江戸末期まで「古川堰」と呼ばれ、農業用水の水源となっていたが、明治初年に干拓され水田と化した。島穴神社境内に建つ干拓記念の「溜池紀功碑」は洪積世から大地を切り込んで東京湾に流れた古前川の記念碑でもある。そして孝標女の印象に残る東の海は、この曲流を指すものと見たい。

更級日記には六十八首の歌が収載されているが、その内、十三首は勅撰集に選ばれている。和歌の道においても相当の力量を持つ女性である。したがって「ひんがし西海ちかくて・・・・」とは、作歌上の比喩表現に通ずる叙景である。

では、孝標女がこの東の海を望見した所はどの辺であろうか。蓋然性の範囲において検証すると、和名抄に収載されている島穴郷が最も条件に適った土地と考えられる。そこは古東海道の通過地点であり、国家機関の一つである島穴駅(現島野区字七ッ町)の置かれた所である。ここから金ヶ原の曲流は東に二〜三百メ−トルの距離で望見でき、西の海の海上潟には約一キロの地点である。

以上の観点より推して、孝標一行が方違いにより仮泊した所は、島穴駅家の官舎と推断され、孝標女が住み馴れた国司の館に対し、仮泊した駅官舎を比喩的に「いまたち」と表現したものとみたい。

千葉県市原市「市原を知る会」問い合わせ先 0436-22-3817 千葉県文化財保護協会評議員 谷嶋一馬


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