【 旅の栞 】

遙かなる古の夢:いちはら探訪

遙かなる古の夢・藤原孝標の女・上総からの帰京へ

 古代の上総は山海の幸に恵まれた豊饒な土地柄であるがうえに地理的な条件もよかったので、早くから強大な豪族が発生して大規模な古墳が多数築かれ、大和政権や律令国家もこの地を関東地方に対する支配の拠点として重視しました。進取の気性に富んでいた市原の豪族は大和に発生した古墳文化をいち早くとりいれて、三世紀に神門(ごうど)五号墳を築きました。これは東日本で最古の古墳です。五・六世紀になると上総は大王(天皇)家と緊密な関係に結ばれ、大王家の軍事的・経済的な基盤となっていました。それは、五世紀に築造された市原市の稲荷台一号古墳の被葬者が「王賜」などの文字を刻んだ特別な剣を大王から下賜されたことや、そのころの上総の豪族・人民の多くが大王や后妃につかえる刑部(おさかべ)や長谷部(はつせべ)等に設定されたことなどから推定できます。

更級日記と古代の上総

 七世紀末から八世紀の律令国家は、市原市に上総国支配の拠点となる国府を置き立派な官道を敷設して嶋穴駅を設置し、国分寺・国分尼寺を建立しました。市原は上総の政治・交通・文化の中心地となったのです。人口も多く物資豊富な上総国は国の等級では最高の大国にランクされ、全国でも有数の重点国でした。したがって奈良時代の朝廷は上総守(上総国の長官)には多治広足(たじのひろたり、のちに中納言)、百済王敬福(くだらおうきょうふく、のちに天平産金の功労者)など有能な貴族を任命したり、弓削浄人(ゆげのきょひと道教の弟で大納言)のような高官に兼任させたりしました。
 彼女は、父の任期満了にともない帰京することになりました。寛仁四年(西暦一〇二〇)九月三日、四年ほど住んだ上総国府(所在不明)付近から一旦「いまだち」という所に移り、そこで十二日間過ごしたのち同月十五日大雨のさなかを車に乗って京へと旅たっていきました。「いまたち」に一旦移って出発したわけは、旅行や外出のさいに方角の良い方に一時滞在してから向かう「方違(かたたが)え」という習俗に従ったからです。「いまたち」という所は「南ははるかに野のかたや見やらる。ひむかし西は海近」い場所であると記されています。旅立ちした「いまたち」はどこなのか、その比定地について七つ町・五所・三島台・西広・今津朝山・今富(いずれも市原市)など諸説が出されていますが、いまだに明らかではありません。

嶋穴神社

 嶋穴神社とその一帯は、更級祭を行うにふさわしく歴史の古い土地柄であるといえます。嶋穴神社は姉崎神社とともに市原市で由緒の古い神社であり、両社は九二七に編纂された『延喜式』に記録されています。菅原考標の女が上総で多感な少女時代をすごした当時、この付近に嶋穴神社が鎮座していたことは間違いはありません。この神社は古代の上総における信仰の中心地の一つであり、付近は水陸交通の要衝でもありました。嶋穴神社の東側二百メートルの所に官道(東海道)がほぼ南北に走り、人馬を常備した嶋穴駅(しまあなのうまや)がありました。官道は律令国家が権力にものいわせて直線的に作らせた幅広の堂々たる国道であり、人民を徴発して常に清掃・修理につとめるなど厳重な道路管理が行われました。また十五メートルおきに人馬を常置した嶋穴駅(うまや)を置きました。谷嶋一馬氏は、長年にわたる歴史地理学的な研究にもとずいて嶋穴神社の東約二百メートルの七ツ町に嶋穴駅があったと推定し、この七ツ町の嶋穴駅こそ『更級日記』の作者が旅立った『いまたち』に比定できるという説を立てておられます。仮に谷嶋氏の七ツ町説に妥当性があるとすれば、彼女たち一行は嶋穴神社の近くから出発して、この神社の東の官道を通った可能性もあるわけです。ただし、そのころまで官道と嶋穴駅が使用にたえられる程度に維持・管理されていたのか否か、明らかでありません。

海上潟

 嶋穴神社の西側に海上潟(うなかみがた)とよばれた港がありました。海上潟は天然の良港として有名であったために、「なつそく海上潟の沖つ渚(す)に船はとどめむ小夜にふけにけり」と『万葉集』に歌われています。和歌をよくした『更級日記』の作者は、歌によまれた名所の海上潟を見物に出かけたことがあったかもしれません。海上潟は古代の養老川が東京湾に注ぐあたりにできた潟湖を利用した港ですが、古代の養老川の流路は現在の養老川の川筋と異なり、嶋穴神社の東・南・西を蛇行しつつ流れて東京湾に注いでいました。この付近の古代の地形や景観は、現在とかなり違っていたのです。かって古代の嶋穴神社一帯は信仰の中心地であり、官道・嶋穴駅・海上潟を擁する水陸交通の要衝であり、歴史的に重要な土地柄であるということが、このたびの更科祭を契機に少しでも認識されるようになれば結構なことだとおもいます。

「更級祭り」の栞より(寄稿:共立女子短期大学教授 前之園 亮一) 

 市原市埋蔵文財調査化センタ−・菅原孝標の女の 更級いちはら紀行 のリンクです。覗いてみて下さい。
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