【 旅の栞 】

引田薬師鰐口について:いちはら探訪

平岩 毅氏作 引田薬師の「鰐口」実測図 

「引田薬師」の銘文のある「鰐口」

石造物の研究家である平岩 毅氏より、千葉市緑区越智町の千眼神社に「引田薬師」の銘文のある「鰐口」のある事を伺い、同氏の案内で調査することを約していたが、平岩氏が物故しそのチャンスを逃してしまったが、幸い同氏の生前中その鰐口の実測図を作って頂いてあった。この鰐口は現在千葉市の指定文化財となっているが、市原市の金石文研究上貴重な資料である。
当鰐口は青銅製で、大きさは径十六糎、耳の幅三糎、目の巾一・五糎の小型のものである。 中央の撞座は菊花に近い蓮華紋である。この撞座を中心に一条及び二条の帯線が三重にめぐる。裏面も同じ文様である。銘帯に次の陰刻銘が刻入されている。

  (表) 上総国海北郡引田薬師別當長泉坊
     本願六郎當處旦那中
  (裏) 天文十三季甲辰十一月七日

なお、引田は鎌倉初期から室町末期までは海北郡であった。さて、この鰐口に「引田薬師」とあるが、引田に薬師を本尊とする寺院があったとは募聞にして知る人はいない。
『市原郡誌』に「引田には正蓮寺という巨刹があった」とあるが、調査したところその寺院について知る人はいなかった。仮にそのような巨刹があったとすれば、寺院の遺構や石造物等が遺存する筈であり今後の研究課題である。
現段階では、蓮蔵院を重視したい。当寺には南北朝期の板碑があり、平安初期と推定される鉈彫りの聖観音が存在する。寺伝に平安初期「慈恩」という僧によって創建されたと伝えられ、本尊の聖観音は「行基」の作と伝えられている。戦時中、徴発されて現存しないが、当寺にあった吊り鐘の銘文に

     奉新鋳  梵鐘  二口
   上之総州市原郡養老作引田観世音
   大士前鐘銘亦序井
  粤有一密場号蓮蔵淨刹本尊者観世音
  菩薩摩訶薩捶是則行基菩薩之所造也為
  其尊霊験厳重而擁護日日新也因茲道俗
  之篤信超世深者乎寔知弘誓之一葉普導
  海嶋之宝刹妙音之発声遠応羣迷之願望矣
  噫可貴可崇良取以之身於五十三猜道於
  二三区乎此尊之利民得益巍巍而不可
  勝計而己雖然従往古以来無此処干捷椎一村
  挙憂之就中当村之長舘氏清次兼思量欲鋳
  浩霜乳驚衆生又長眼并慈眼之妙相也汝而塵
  俗交雑而鳥免移転経於数暦也既而有鐘愛之
  女息去秋不図臥病患愁焉身樹存気力日衰
      基詞日
 福王山上     慈恩鐘声
 蓮蔵精舎     人到丹誠
 四輩男女     一心称名
 当願六道     貝縛羣生
 開示悟入     速脱妄情
 ?尼輪剣     頓唱太平
 灰沖難口     活乎趣京
 蒲牢戚力     旦昏分明
 黄金鋳出     鉄塔最盛
 八百煩悩     三暁己成
 妙音弘誓     運戴南瀛 
 淤泥緇素     救苦清清
 獨世大王     巨益無評
 壇主子子     子孫英英
 自也門葉     余農相並
 共天共地     人法最栄
 維 延宝施蒙単閼夾鐘吉辰貧道 梨欽記之
  当国市原郡引田村別当福王山慈恩寺
              蓮蔵院元栄
  同所  本願施主館野氏太郎兵衛尉清次
  同所        同館氏久五郎信吉
  同所引田村        諸旦那
  同所神代村        諸旦那
  同所布替村        諸旦那
開眼導師上総国海保村本吉遍照院源海
         御鋳物師
       武ы]戸住
     田中丹波守藤原
         重正作
とある。

行基作の聖観音は霊験あらたかな仏サマとして近隣の住人の信仰と集めていたと銘に入れてある。
古代以来、庶民が最も恐れていたのは疫病である。特に、疱瘡は流行し始めると瞬く間に感染が広まった。一例を挙げると、行基が東大寺造営に活躍していた天平時代、九州で疫病が発生し忽ち蔓延した。大宰府からの報が中央に届けられた。その報に「管内諸国、疫病大いに発し、百姓悉く臥せり」とあり、これが京に侵入した。続日本紀に「是藏、年頗る稔らず夏より冬に至るまで、天下、豌豆瘡(もがさ)を患いて夭死するもの多し」とある。この疫病は中・近世に於いても変わらなかったと想定される。
袖ヶ浦市の笠上観音も疱瘡の仏として著名で、市原市の各地から学齢期以前の子供を連れて女達がお詣りした。
引田薬師も同様、医薬では治らない疫病等に罹らないように里人は行基作と伝えられる鉈彫りの当寺聖観音に祈願したことにより信仰され、引田薬師と呼ばれるようになったのである。
里人は家に病人が居れば当地唯一の平安仏である蓮蔵院の聖観音に病気の平癒を祈願したものと思われる。それが薬師サマと呼ばれるようになり「引田薬師」として広く信仰されるようになったのではないかと思考される。

参考文献
◇鶴岡静夫「関東古代寺院の研究」昭和四十四年  弘文堂
◇井上 薫「行基」(人物叢書)昭和三十四年  吉川弘文堂

市原市文化財シリ−ズ 第十七輯
平成二十四年度 歴史散歩資料
石造物から探る郷土の歴史(その三)
谷嶋一馬著 引田薬師鰐口について
市原市地方史研究連絡協議会
出展 歴史散歩資料より転載

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