【 旅の栞 】

むかしばなし《第六話》:いちはら探訪


【ガニガニマンマタケ】

入梅が終わる頃から初夏にかけてササガニ(渡り蟹)の漁期にである。漁は蟹網か玉網で掬う二つの漁法があった。筆者は誘われて夜半の海で玉網による蟹採りの経験があるが、カイトの明かりに浮き上がって泳ぐ蟹を掬うのは至難の技である事を体験した。ところでいきの良い、鮮度の落ちない蟹は口から泡を吹いているのをよく見かけた。それは丁度飯が炊きあがって、釜から湯が泡のようになって吹きこぼれる様にも見える。
椎津・川崎地区(姉崎)の子供達に伝承された「ガニガニまんま炊け、ハマト(浜人)が出るぞ」という俚諺がある。遊びの中で語り伝えられた俚諺であるが、蟹の泡吹きに仮託して、漁に出る漁師の姿を見送る浜辺の子供達の遊びの情景が汲み取ることが出来る。俚諺に語られる「浜人」には子供達の親や兄弟、浅蜊等の貝類を採りに行く母親なども「ハマト」として同一に見て居るものと思考される。椎津の古老から聞いたことであるが大正時代頃まで椎津では大掛かりな地引網漁が行われており、この漁には60人位の人手を要したという。また中には、一人か二人で行う小漁を主とする漁師等が大勢居た漁師村であったという。漁には日中行う漁と夜間・暗夜の中で行う漁があり、櫂を担ぎ漁具を手に朝夕入れ違いに漁に出る村人を見送ったことであろう。古くから漁師村として栄えた椎津や川崎(姉崎地区)往時の状況を伝える俚諺の一つである。


【草の匂いがするとヤマセが吹く】

農村地帯では風の吹く方向や雲の成り行き等には余り注意することはなく、気象に関する言葉は多くないが、漁師達の生活の中では気象の状況観察を怠ると思わぬアクシデントに遭遇することになる事がある。漁によっては暗夜の海に出漁することがあるので、漁師達は海岸に立ってその日の天候状況を観察して漁に出るのを決めていたと云う。筆者の友人青木源平氏の祖父は、地元では漁の神様と言われた程漁撈については人の及ばない技量を有していた。その人はまた気象に関し特殊な感覚を持ち、草の匂いを嗅ぎ分け、その匂いがすると「ヤマセ」の風(東南の風)の吹くことを予知することが出来たと云う。長年海の漁で生活して来た人でも浜風の中で草の匂いを嗅ぎ分けることは不可能であろう。

【風見の大楠】

五大力船の船頭や漁師の生活は、板子一枚下は地獄だの諺どうり、そのときの気象条件によっては遭難事故になるという事は、各浦々に伝わる海難事故がそれを物語っている。日々海で生活している漁師の家ででは、漁に出た男達が無事に漁を終えて帰宅するまで安心できなかった。
日々の天候のうちで最も注意しなくては富士山の方角に発生する黒雲である。特に「富士した」(富士の方向をさす方言)に出る蝶々のような形をした空に浮かぶ雲は文字通り「蝶々雲」と呼び、この雲が出現すると間もなく荒天となり海は荒れ、対応が遅れると生死にかかわる事になる。集落内では、微風でも海では陸地の数倍の風となる。従って家にいる家族たちは、常に風の吹く方向に注意し海で働く人たちの身を案じた。
雲行きなどで天候が不安なとき、風の吹き具合を大きな樹木の枝のなびく方向を見て判断した。北青柳では小倉澄夫氏宅に近年まで、同家の屋敷の北隅に一抱えも二抱えもあった楠と楓の二本の古木が風見の樹として、天候の変わり目のときには必ずこの楠の大樹を見て風の吹く方向を判断をしていたと云う。

【ほーほんや】

ほーほんや ほーほんや あわきのほーほ
ほーほとほへんどが たたんがたんからす
今年の年はみのく(みろく)のとしで
さんがん ぜにをたすきにかけて
よねはかり よねはかり

「ほーほんや」は一月十五日の子供の行事で、一本なりの竹をかついでうちならし町内を回った。特に初午の宿となった家では一段と声をはりあげて「ほーほんや」を歌った。
そうすると初午に集まった親達より何がしかの金が子供達に振舞われた。
この「ほーほんや」に担ぐモウソウ竹は、必ず「よしえむ」という家から買ったという。また当地ではこの日はお粥を食べる習わしであった。
この風習は古川 明氏より伺った (82・8・7)

注 ミロクは豊年を意味する言葉として使われた、例えば海苔の当たり年の場合、今年の海苔は「ミロク」だと言った。(古川氏の説)

千葉県市原市「市原を知る会」問い合わせ先 0436-22-3817 谷嶋一馬。

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